見出し画像

これを、愛と希望の物語と云う

(タイトルは某ゲームのセリフより)
(見出し画像の位置が変なんだけど、公式のTwitterで使えそうな画像がなかった)

※これは2023年7月2日の27~28時…つまり3日の午前3~4時に書かれた文章であり、矯正はするもののほぼ勢いで書いている、結構酷い内容である。それを理解した上で、読み進めて欲しい。


 風呂に入っていると、スマホを手放す所作からなのか、頭が茹だっているのかやけに思考が巡ることが多いとここ数年で感じることが増えた。
 例によって完走とは言えないが、アーカイブ期限が終わるギリギリでAnima IIのEDまで見た後に風呂に入ったものだから、それはもう熱がこもる思考ばかり水揚げされたんだが、いつも通り湯冷めと共にその思考が波のようにひいてしまう。床に入る前に筆をとる頃には見事熱が収まっている、といった具合だ。
 そんなの許さない、お前はあのライブを通じて一体何を獲得したんだ。何も出来ない自分が、せめてそれくらいだけでも歯を食いしばり言葉を紡ぎ絞りだせ。


 とは言ったものの、私は純正品のヰ組ではないから、なにかライブについての仕掛けや考察についてここで触れられるものは用意してない。もちろん思う節は多々あれど、今回私にとってはさほど重要なことではなかったし、他紙面にお任せするところだ。とにかく触れたいのは、ヰ世界情緒の持つ“愛“についてだ。別に大層な話はお出しできない。

 オンラインライブのみの形態の場合、私は視聴会でも開かれなければ専らTLの反応を見ながらライブを観ていくタチの人間だ。その甲斐あって…というか、やはり1周目はあまり集中してみることは出来ない。オンラインライブ特有の、同士たちの初見反応も見ることが出来る楽しみ方なのだから、まぁ…という意味ではどうかその矛を収めてほしい。
 1回目を通しで観て思ったのは、やはり創作者が1番心をうたれる内容だな…ということである。Twitterでも呟いたのだが、ヰ組には創作者が多く見られ、情緒本人もまた創作者であるのだから、共鳴する部分が多いのだろうという所感だ。

 『Anima』というライブシリーズはそういう点が押し出されている様に思うし、今回ライブに関わってくださったクリエイターさんの告知ツイートをいいねした上で、いいね欄を見るよう促した情緒本人の動きにも特に見られる点だ。

 その他にも、Pさんのツイートにもあったように、関わる人間がまた彼女のファンであるのだから…という話もある。


 …言っておくと、ご存知の通り私は創作者では無いと思うし、あまり表立ってヰ組だと言わないのは(そもそもそういう呼称を使用するのを避けている人種がいることも把握している)、組内の創作者人口が良い意味で多すぎるし強すぎるからだ。
 別に苦言を呈したい訳では無く、いつもFAを始めとしてアホみたいにいいねRTをしている身ではあるものの、何も持たざる(そして何かを手にしようと努力もしない、志だけ一丁前な)人間にとっては少々肩身が狭い。
 まぁ、細かいことに気に病んでいるのは私の特性だし、そんなに気にしてる人はいないのかもしれない。
 その分、ヰ世界情緒展関連で少しnoteを書くことが出来たのは(創作云々関係なく、ただの自己満かもしれない)何よりも嬉しかったし、あの時の自分にしては稚拙ながら割と納得したものが出来た。

 あれのお陰で繋がれた縁もあるのだから、1番血反吐を吐いて書き散らした歌詞考察なんかよりも、今でも気に入って固定記事にしているほどである。

 とまぁ、自分語りが長引いたのだけれど、いわゆる『Anima』というのは創作者が特に共鳴するモノであり、それからあぶれた私は曲解して『進みたい道を進むという、人生という名の創作』なんてクサい言葉を吐き出してひとまず落ち着いたのである。

(※7月3日現在、ユーザー名とアイコンが変な感じになっていますが、ちゃんと私です。)




 そして、アーカイブ期間は開いてから7日間観れたのに、アーカイブ期限の問題で実際は残り5日くらいしか残っていない状態で開いてしまい、リアルタイムで観た時ぶりの2回目以降を観ることになった。
 2回目はツイートを極力控え、集中してライブを観た。2回目以降は最終的な展開が分かっているので、『夜河世界』への文脈も込んだ選曲や、ポエトリーリーディングが指している大半の内容が後の展開に繋がっているなどして理解しやすくなっていたり、またMCも集中して聞くことができた。

 私は聴きながら並行してとかじゃないとうまく歌声とかの感想を出力できないので、ここではあまりその事について触れられないのだが、もちろん彼女の歌声、いやそれにのみならず振り付け等に至るまで素晴らしいの一言、二言、一億言だった。

 私が特に触れたいのは、情緒が地下礼拝堂に向かってからラストまでの部だ
 もちろん、当時の無印Animaでは無かった盛り上がる最新曲たちを軒並み披露した開幕だったり、ネモフィラ黑(そう呼んでる)になってからの『物語りのワルツ』を筆頭とした楽曲群には堪えるものがある。ディスコパートも素晴らしすぎるし、まさかパラキャン衣装が再び見れるとは思わなかった。神椿市に到達してからは、Memories・Awakeの曲を披露し、『ARCADIA』、星界ちゃんとの香椎モイミさん曲デュエットも素晴らしかった。私は『カレンの清掃』に一目惚れ。

…とまぁ、他セトリに触れない訳にもいかなかったが、2周、3周、4周、5周、6周と観て聴いていくうちに強く感じるのは、彼女の小さな姿が抱える大きな大きな“愛“だった。
 私は1周目に何を見て、一体何にひねくれていたのだろうかと感じるほどだった(確かに、当時は精神衛生が良くなかった)し、関係者のツイートを見てもたしかに彼女の愛について触れられているものは多かった。

 とにかく上手く言葉に出来ないのだが、彼女の言葉を、歌声を、想いを、Animaを受け取ってただ私が想うのは彼女のことがとても愛おしく尊いということだった。
 私が1番推していると言っても過言、何よりそういう印象を周りに持たれていそうな幸祜ちゃんへの感情とはまた違ったもので、何故とか、内部構造とかを暴く必要も理屈もない。ただ、彼女が向ける愛に共鳴して、ただただ私にも強い愛が灯ったのは確かだった。
 彼女は不器用だと言っていたけど、およそ多くの人間に向けるべきその大きな、大きな愛は『あなた』という一点に絞られ、そして放流されるに至る。


彼女の愛は、白砂青松を抱える広い海なんだと思う。いやこれは、以前の南島原市の配信に引っ張られすぎているか…(笑)
 海というのは果たして不器用なんだろうか?穏やかだったり、荒れていたりするし、私たちを翻弄するものだ。ただ一方で、あの大きな海原はちっぽけな私たちを一身に受け止める。7:3という比率は何も陸地にだけ当てはまるものでは無いだろう。そして何より美しい景勝で、色んな贈り物を砂浜に打ち付ける。生き物が住まい、生命体のふるさとである母なる海だ。白砂青松の松は、その多くが江戸時代に植えられ、防風・防砂が目的だったと言うし、海と例えるならその必要も無いのかもだが、彼女に対して何かを防げる存在な私たちでありたいと、少し思う。


 私はそんな彼女の海に呑み込まれて、もう戻れそうにない。楽園は海の底にあったのかもしれない。彼女かあんなにも、私たちに愛を向けていることを知ってしまったから。
 私はややひねくれている人間だから、およそ上位存在から投げかけられる言葉をあまり信じられなかった。活動や歌声などを信じることはしていても、あまりそういうことには信用を置いていなかったかもしれない。結局、目に見えた反応でもされない限り確証を得られないからだ。
 でも、なにか返したいと思えたのは、あのライブのMCが不特定多数ではなく『私自身』に説いていると感じ取れたからであり、今こんな拙い文章を書いている。もはや脇目を振らずに書いているのだから、構成はぐちゃぐちゃの殴り書きだ。


アーカイブ期限が迫る中、私は『生きていく光は』で号泣し、終盤は多くの涙を流した。冗談抜きに今年1泣いたと言っていい。
 
それは今私が心が弱っている状態であり、ライブを糧に頑張りたくても頑張れない自身のおかしな矛盾した構造が専ら原因で。先の『生きていく光は』なんて、アーカイブ期間中聴いていて泣くことはなかったのに。
 そんな中、一緒に生きていこうねなんてまた言われたものなら、それまでグネグネ拗らせてきた人間でもコクコク頷いてただ何とか生きていきたい、なんて思ってしまうのである。不思議だ。

 私も、彼女の後ろに構えた、白いAnimaを包み込むあの大きなくす玉のようなものを形成する花びらの1枚になりたい。無限のAnimaの中の1つにどうにか属したい。正直言って頑張れないし、枯れた紫陽花のような、色褪せた花びらになるかもしれないし、もはや灰になっているかもしれない。今年植え替えた紫陽花が来年どうなっているか分からないが、もしくは根っこからだめになっている可能性もある。

 でも、それでも、どうにか彼女について行きたいと思った。これからも、いつも通りにやや一歩下がって行く末を見守りたい。そんな、取るに足らないひとつの魂が震わされたライブだった。

涙はやがて、海に流れていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?