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海馬海岸の貝殻ひろい

、、何十年後、私は"あなた"のことをどう捉えるのか。どう思い出すというのか。

私はそれを知るためだけに、この人生を揺蕩って行けるような、そんな気がするような、気がしている。えらく後ろめたく、頼りのないぼろぼろな柱。

空港にある、平らなエスカレーターを思い出した。あれみたいに真っ平らで、それでいて前に進むようなかの存在に、何かを見いだした。

あのエスカレーターのように、今の気持ちが変わらぬまま、真っ平らに、それでいて前に進んで行けるようになりたい。
エスカレーターが止まれば、私の足が使い物にならなくなるまで、歩き続ける。そんな気でいる。気がする。

エスカレーターの逆走は御法度だ。
昔、ホームセンターにある平らなエスカレーターで、目の前に警備員さんがいるというのに、兄に茶化され、逆走させられた少年の頃を、思い出した。
特に何も言われなかったが、記憶が薄まっているのか、今の私が補っている部分なのか、何か鋭い視線を警備員さんから感じていたような、そんな気がした。でも、私がビビって慌てふためいて、兄は笑っていた。
私も、笑って、いた。

でも、私の中のエスカレーターは、勝手に逆走しても誰にも咎められない。
私はいつだって、あの頃に戻れるような、そんな気がするのだ。
あの時間には戻れずとも。

だから、私は、このエスカレーターを進み続けるよ。立っていようが、座っていようが、寝っ転がっていようが、エスカレーターは絶えず動き、どこかへ私を連れていく。連れて行って、しまうのだ。

その先で私を待ち受けるのは、これまで、1秒、1分、1時間、1日、1週間、1ヶ月、1年、、、、無数の日々を刻んだ、無数の"私"だ。

無数の"私"は記者となって、"私"に問いかける。群がり、連なり、束となって、"私"にそのマイクを向ける。

聞きたいんだ。究明したいんだ。
消費された"私"の『残機』が一体、何に、どこに注がれて行ったというのか。そのことを。

そして、注がれたその先、マイクの剣先に立つ"私"が、如何なる答えを持ってそこにやってきたのか。何を口にするのだろうかと。彼らは待ち受ける。


私は、答えを得られるだろうか。
帰国後の、あの堂々とした足取りの芸能人たちのように、何かを答えられるだろうか。

"あなた"に対し、何を想うのだろうか。

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