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無題:道標と暗渠

前回より引き続き、同シリーズ。


虫の音の時にもやんわり触れた通り、前期の逃避行と後期の逃避行の圧倒的な違いは「時間」だった。
前期は1限-5限、2限-4限分の時間が我が手中にあり、1年における上半期の日の長さも味方してどこまでも行けた気がした。
対して後期は、もう1つ分の時間しか私には与えられていない。長い時間の調整も難しいが、短い時間潰しも辛い。こちらは長いようで短い。
前期での逃避行も正当化されて良いはずがないのに、それすらも羨ましく、あの頃に戻りたいとすら思えるような心持ちになってきた。


行動すればそのうち、何もしていないのに日は傾いていく。夕日は哀れむように、蔑むように、時に美しく沈み、バトンタッチした夜空は眷属の暗闇を用いて私を心身共に攻撃してくる。

1人の夜道はやけに辛い。車のヘッドライトは私の行く末を照らしてはくれない。数多の人生が秒速ですれ違う車道沿いを歩いたって、何も見えてきやしない。自らが招いた行動、結果なのに、ひたすらに辛い。自身の弱さのあまり、特に用もないのに外でスペースを開いてしまったりする。それで人が来てくれるのだからぼくは愛されているのかもしれないが、寄りかかれるの今の内だろう。

ただ、私は何も考えずひたすら無心に歩くことが出来る人間ではなかった。今までの逃避行では必ず、明確なものもあれぼんやりとしたものでもあれ、行先を設定する癖が自分にはあった。
前期の時は行く前にやんわりと方向性を決め、電車で移動しながらGoogleマップに見やる。後期の場合はもう特にそんな余裕もなく、半ば本能的に途中下車をする。
この期間中に学んだのは、ひたすら電車の往復で時間を潰すことが1番辛いということだ。ボックス式の座席なら、ずっと車窓を見て頬杖をつく理想的なことを実践出来るだろうが、どうもうちの沿線はそう上手くいかない。爆睡はできず、手のひらサイズの液晶パネルを使い続けるのも苦痛だ。
だからそういうことになってしまう前に、直感的に途中で降りるのだ。駅前にあれば設置してあるマップを見て目星をつけ、そうでないなら自身が帰る方向、もしくは付近に何かあるかGoogleマップをグリグリやる。
家に帰ることなどを頭に入れながらこういうことしたくないけど、当たり前に万人が兼ね備えているであろう打算的な帰巣本能が脳に働き、自身の行動を制御する。“まだ“自分に帰るべき場所が残されていることに対して大いなる感謝をしつつ、このような思考のたかをいつか外して馬鹿したい、化かしたいといつも思う。

以前も述べたが、前期の場合だと大まかなエリアを狙い、後期だと河川を目指していく傾向がある。車道沿いを、線路沿いを歩くよりもずっと、川沿いを歩くのが1番気分が良い。結局、自分は何かに沿わないと生きていけない人間なのだろうかと、冬の相乗効果で水辺近くの寒さが訴えてくる。その訴えすらも歩いて風を切り、払い除けるのだ。

一人は寂しい。冬は寒い。心は弱り、1つも正しくないこの行動が自身の罪を強く自覚させる。誰も肯定せず、自身も受け入れない。目的も何も無い空虚な、足取りが重い罪人の巡礼と化しているこの冬のひと時が、少しだけ救われる瞬間に出会う時がたまにある。
前回noteを書くきっかけになった、感性を揺さぶった公園はのっけから目的地に設定していたので、やや必然的な出会いだったのでまた違うタイプにはなるのだが。その出来事は先週と、今日起こった。

先週、時間つぶしも終盤でその内駅に着いて帰るという時。車道沿いをつまらなそうにとぼとぼ歩いていると、なにか上に鎮座していそうな高台と森がみえた。横を通ると、急な階段と神社の社号標がある。こういう時に絶対登るのが私の性。

Googleマップのクチコミと境内の看板の情報を抽出すると、少なくとも江戸時代からの歴史がある空間だった。加えて高台なのだから、眼下の夜の街並みを見下ろせ、それ用の腰掛けもある。
ぼくは大きい神社も好きだが、何よりも人が居ないことが魅力的と感じることもあるので、こういった割とこじんまりな神社は本当に心地よい。夜に訪れれば、僅かな明かりと静寂だけがぼくを出迎える。きっと日中は違う表情を見せるのだろう。何故こんなにも心地が良いのだろう。
この日は満月だったのだが、縁あってこの地は「月見」という別称が付けられている。そのような偶然が本当に愛おしい。

そして今日。今回はちょうど進行方向に合った川沿いを歩き、なんとなくある橋を目指していた。その時はただの橋だと思っていたのだが、その地理的要因も相まって過去において重要な橋のようだった。橋の欄干が無く、幅員が足りていれば車も通れる場所だが、この冬空の下には私以外誰も居ない。遠くに聞こえる車の音、電車が橋を渡る音、川が流れる音。夜空の風呂敷が広げたこれらの音に、私も一人、混ざっていく。

かつてこの橋は古道に架かる橋で、その昔は橋渡しではなく舟渡だったようだ。Googleマップはこういうことを律儀に書いてくれる人間がいるから素晴らしいのだ。その情報の是非は置いておいて、それっぽいことが書いてあればそれに浸れる都合の良い人間なのだ。
その後も古道は、鼓動は続いていき、今も残されている「道標」に出会う。時は江戸時代の安永年間、西暦は1772~1781年。私は年号と西暦を全く覚えてないのでこれは自前での調べだが、今現代は2023年。250年強あまりの時が流れているというのに、絶えず残されているという愛おしさ。これだから、石材は好きなんだ。

私は、1人だ。歩きただ、1人だった。けれど、私が辿ったこれらの道は、かつて多くの人々が行き交ったに違いない。目に見えない歴史の地層が束となって、重力を伴い私の肩にのしかかる。それは先人たちの手の温もりだ。
私、ひとりじゃない。

普段は近道等で用いられている想定があろうとも、今このひと時でこの道を通ったのは私を含め少量の存在だった。目には見えない積み重ねられた歴史が、この道の下には流れている。まるで、外からは見えない水路「暗渠」のように。それを繋いできた人たちがいるからこそ、その存在に気づくことが出来る。


……私は、「歴史」が好きだからという理由でこれまでやってきた節がある。小学生の図書室で読んだ漫画の伝記、煌びやかな戦国図鑑、漫画で読む日本の歴史……。これらが幼い私にどのように作用したのか、今の私が脳内補完するにも足らない何かがそこでは起きていたのだと思うが、別に大層なことではなかったと思う。生きものの図鑑を読むのも好きだった。

段々そうした本を読まなくなっていった私はある時、そうした要素を古層から取り出して、しばしば進路の舵取りに用いた。高校進学もそれといった動機があったわけでもなし。感銘を受けた歴史の教師は居たけれど、別に先生になろうとはしなかった。教科を教えるだけが教師ではないし。  
やがて高校ではこれといったものを得られず、自分にただ1つ残された、好きだと信じた「歴史」を動機に、なんとか大学に入った。
高校ではとにかく嫌な授業もやらされてしまう分、大学は必修以外好きなものを取れるので、選択授業で、今となっては眠気以外で苦になることはあまりなかった。ただ、復習もせずテストに瞬間火力をぶつけてすぐ頭に抜けていくので、基底はすっからかんだった。もちろん、残るものもあったとは思うし、今の自分に繋がっているのであろうが、それを目に見えて証明するのは難しい話なのだろう。
これは入学時からずっと変わらない話だが、日本史をマークする受験期の学生より知識はからっきしだった。

ぼくは、歴史の深淵を覗いていくうちに、だんだんと自分はそこまでのめり込む人間では無かったのかな、とじわりじわり感じるようになってきてしまった。冷めとは違う何か。取り入れた知識も、受けた講義も、フィールドワークも楽しかったのに、なのにどうしてこんなにも空っぽになってしまったのか。
つまるところ、さっきみたいに道ゆく歴史物に惹かれ、関心を寄せ、何かを感じてその場を去ってゆく。自身の心情に、記憶に爪痕を残す差はあれど、自分はその位の接触度が1番心地よいと気づいてしまったんだ。
でもさ、だからといって最後までやり遂げないのはどうなんだ。成果も無くて、自分の手には、路には一体何が残っているというのか。自分が打ち出した興味のあるテーマが、軒下で泣いている。なんだったのだろう。


道標がポッキリ折れていても、水の流れが外から見えていなくても、汚くても。死ぬまで絶えず自分の根底で湧きいで、注がれるべき場所に、この暗渠が合流していくことを願う。

自分のことなのに。

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