雨の日のメモ。コーチから相談役へ

2年前の今ごろ、私はカナダでカーリング男子の世界選手権を取材していた。
日本のコンサドーレがメダルまであと一歩に迫った大会だった。
コンサドーレには、外国人コーチがひとりいた、私の記憶違いでなければ、ふだんのコンサドーレにはコーチはいない。この大会のためにコーチを雇ったか、この大会の少し前からコーチを雇ったというような話だったと思う。資金の問題でコーチがいなかったようだ。

カーリングファンの方はよくご存知だろうが、コンサドーレの阿部選手は、オリンピックで女子チームのコーチを務めた人でもあり、競技経験も指導経験も十分すぎるほどある。そういったこともあって、コーチなしでできるという面もあるのだろう。しかし、大会では選手ではない第三者のコーチの助言が必要だと考え、一定期間だけコーチを雇ったのだと私は解釈している。
このコーチは相談役、コンサルタント、アドバイザーという言葉で言い換えることができる。選手たちが助言を請うために雇った人で、主従関係というのとは少し違う。

なぜ、いきなりカーリングのコーチの話を書いたのかというと、
最近、子どものスポーツの場で「見守る」、「口を出さない」、「子どもたちに主体的にやってもらう」という取り組みが出てきている。
大人が介入することで、子どものスポーツの楽しさを削ってしまっているのだとしたら、子どものスポーツを、子どもの手に返すことはとてもよいことだと私は思う。

ただ、ひとつ難しいと思うのは、子どものスポーツの参加費用がそれなりに嵩むケースでのコーチのあり方だ。
保護者は、子どもに何かを身につけることを期待して、安くはない指導料を支払っていることが多い。だとしたら、見守るだけのコーチ、口を出さないコーチのあり方に、出資者兼保護者として納得できるかどうかを自分に問わなければいけないだろう。また、子どものスポーツをビジネスとして提供する側も、徹底的に教え込むのではなく、見守るだけの指導で、保護者に財布を開かせることができるのかどうか、ビジネスモデルのあり方を問われるのではないか。

「競技力だけでなく、主体性が身につきます」という広告をつけたアカデミーやスクールに、高額な参加費用を払わなければいけないのだとしたら、これも何か、おかしな感じがする。

子どもは、というより、人間は、やりたいことがあったらやる。それなのに、子どものやる気をなんとかして引き出し、子どもたちだけでできるような場をセッティングするのに、ものすごい労力と高い費用がかかるのであれば、それはもともと子どもがやりたいことではないのかもしれない、と私は思ってしまう。自らを奮い立たせて、指示されなくても、やらなければいけないことをやるというのは、主体性というよりはも労働の場における自己管理能力に近いだろう。子どもは、やりたくない練習でも主体的にやる力が身につきます。大人から指示されなくても、期待されていることを先回りしてできます、というような感じだろうか。


どうしても自分の子どものころと比較してしまうが、子ども時代の遊びというのは、やりたいからやるのであって、大人にやる気を引き出してもらってまでやるものではないからだ。かってに遊びはじめ、友達にも入ってくれるように交渉し、遊べるようにルールを決め、というその時点で、もう主体的に動いている。

普段は見守るだけだが、子どもが求めればアドバイスをする、という相談役としてのコーチ。試合を組むというのは子どもだけでは難しいので、マネジメントする大人。プレーヤーから求められたときに、客観的な視点から助言を与えられる存在。こう書いていると、あのときのコンサドーレのコーチのイメージにつながる。主体的に、自主的に子どもたちだけでやっているふうで、ただ、大人の期待を読んで、言われなくても動くというのは、ちょっと違うと思う。

子どものスポーツを子どもに返すためには、コーチも教え込む人、従うべき人というよりは、アドバイザーやコンサルタント的な役割に変化していくかもしれない。

そして、この変化には、これまでと少し違う役割を担うかもしれないコーチに、親はどれだけお金を払えるか。業者側も新しいビジネスモデルを提供できるのか、だと思う。


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