個人的な話 祖母とおちょやん

今、NHKの朝ドラで「おちょやん」というドラマをやっているらしい。私は残念ながら見たことがない。海外でもNHKを視聴する方法はあるのだけれど、お金を払っていないので見ることができない。

昭和46年、1971年生まれの私は、ドラマの主人公である浪花千栄子さんのことを何も知らない。昭和48年に亡くなっているので、当たり前だろう。

浪花千栄子さんをモデルにした朝ドラが始まる前に、この女優さんの略歴を紹介する記事が何本か出たので、それを読んだ。

祖母の子ども時代の話とよく似ていた。よく似ていたのは、びっくりするような偶然ではなく、当時、多くの子どもが同じような状況に置かれていたからだと思う。

落語「らくだ」の舞台といわれる路地裏長屋の狭い家で、私は祖父母と同居していた。いつの時代も、老人と子どもは、働き盛りに比べるとひまである。そのためか、私は祖母の話をよく聞いており、わりにいまでも覚えている。それをここにちょっと書いてみたい。

私の祖母、谷口ヒサエは、明治38年に大阪府富田林に生まれている。4歳のときに父親を亡くした。ヒサエは、父親の顔や姿は覚えておらず、葬式のときに、誰かに背負われていた記憶しかない。その後、ヒサエの母は生活のために再婚したのだが、再婚した夫が酒に酔っては、暴力をふるうため、自身とその姉、その母の3人で大阪市内まで着の身着のままで逃げてきた。

そして、ヒサエは7歳ごろから奉公に出た。「あんたの年のときには、マッチ工場で働いていた」と言っていたので、たぶん、子ども時代は、マッチ工場で働いていたのだろう。小学校には通っていない。が、何かの加減で小学校4年生のときだけ、学校へ行けた。「半年ほどしか学校に通えなかったが副級長になった」というのが自慢話だった。

私が小学生だったときのこと。電話でマッサージの予約をしたヒサエは、電話横のメモに「アンマ カト」と書いていた。書きなれていない、一字一字がバラバラに並んだ、ちょっと不自然なメモだった。私は屈託なくそれを笑った。ひらがなであれば「かとう」、漢字なら「加藤」である。そのころ、コメディアンの加藤茶がすでに「カトちゃん」と呼ばれていたかどうかの記憶は曖昧だが、私は「カト」ってなんやねんな、と思った。

笑ったところ、父にきつく叱られた。「学校に行けなかったから、自分で字を覚えた。学校に行かせてもらっても、まじめに勉強してないおまえよりもずっと頭は良い」と言われた。私の父も中学しか出ていない。

ヒサエは元気な人だったが、80歳で亡くなった。私が中学2年生に進級して因数分解の宿題をしていた4月のある日、タケノコを入れた寿司を作った後、銭湯にいって突然倒れた。クモ膜下出血だった。いったん、家に連れてかえった後、救急車で富永病院へ運ばれて手術した。ボクシングの赤井さんがその年の2月に開頭手術を受けて、生還した病院だ。しかし、意識が回復しないまま術後、2週間で死んだ。親戚一同「赤井は助かったが、おばあちゃんは、もう年だったから」ということで、なんとか自分たちを納得させようとしていた。

ヒサエの孫、つまり私の従兄は、今、「おちょやん」に出演されている渋谷天外さんと高校、大学と同級生だったはずだ。その従兄も2年ほど前に若くして亡くなった。その従兄は愛想よく、大阪の商売人の雰囲気を漂わせていて、どこかへ出かけた後、「おばあちゃんの荷物持ち」という名目で、私に1000円を握らせてくれた。

祖母が亡くなって30年以上たつ。見てもいない「おちょやん」の記事で、薄れていた記憶が刺激された。

私は、あと一年足らずで50歳になる。先日、寝起きに手の甲の臭いをかぐと、祖母の手と同じ匂いがした。ただの加齢臭だろうが、なつかしい匂いだった。


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