過去の仕事のできごと④

はじめに、私は弟を亡くしている。
このことについては今はもうかなり癒えてきているし、心に整理をつけたい時、書きたいと思った時にまた書こうと思ってるので、今回は詳しくは書かない。

「人が足りなくて、これから始まる特撮の仕事を手伝ってくれないか?」

造形系の仕事から離れ数年経ち、接客業をしている頃に突然、その電話がかかってきた。

精神的にも体力的にも続かなくてやめた職業ではあったけど、仕事内容は好きだったし、その電話をくれた人自体のことも好きだったので、「週に2回でしたら手伝えます」と答えた。

私はヒーローものとか、ロボット系とか、昔から全然興味がなかったけど、弟の影響もあって、幼少期には遊びに付き合ったり、目や耳にすることは日常的だった。


そんなこんなで電話をくれた美術監督のもとで美術部隊の一員として、週に2度、撮影所へ通うことになる。

主に私は建具や布物などの簡単なデザインをしたり、美術監督の下書きを図面化したり、そんな仕事をした。

慌ただしく準備は進み、これからいざ撮影が始まるという時に、弟のことがあった。

美術監督に電話をすると「こちらのことは何も気にしなくていいよ。無理だったら今後は来なくても大丈夫だし、とにかくそちらのことだけ考えて。」と優しく返事をくれた。


それから1~2週間ほどまともに眠れず涙も止まらずだったけど、誰よりも辛いのは間違いなく親だと思っていたので、「私がしっかりしなければ」という無理矢理な気持ちが自分をかなり冷静にさせてくれていたと思う。

弟のことを何度も何度も思い返すうち、ウルトラマンの人形を母手製の同じくウルトラマン柄の青い体操服入れにパンパンになるくらい集めて入れてたなぁ。とか、ゴジラやモスラのビデオを借りてきて何度も何度も繰り返し見てたっけ。とか、特撮に関する思い出が色濃かったと改めて気づいた。

今回の仕事も、弟に「特撮の仕事をしたんだよ」と報告するつもりだったのに、伝えられなかったことが、今でもとてもとても悔しい。

その悔しさ故か、「この仕事は必ず最後までやり切ろう。」と決心したのだった。

この悔しさは私のエゴでしかないけど、これをここでやめてしまったら絶対に何倍も後悔すると思った。

「なるべく早く復帰して絶対にやり切ろう」という強い意志があったので、美術監督に電話をして、「無理しなくていいよ」と優しく言われたけど、「行きます」と言った。

復帰した初日、なぜかいつもと違う場所を指定され「打ち合わせかな」くらいの気持ちで向かった。

駅に着くと、美術監督が1人で私を待っていた。
「大丈夫?とりあえず、ご飯食べようか。」
と言われ、その時も「あ、ご飯済ませてから打ち合わせかな。」くらいに思ってた。

連れて行ってもらった先はこじんまりとしているけど、綺麗で立派なお店。

美術監督は、迷うことなく私の分までオーダーをすると、出てきたのはとっても立派な、高そうな鰻重。

「まぁ、今日はのんびりこれでも食べようよ。」

そう言われて、はじめてハッとした。

「私を元気づけるためだ。」

それまで「この仕事だけはやり切る」という意思だけで動いていたので、緊張の糸がプツッと切れたみたいに心が緩み、震えた。

この時を振り返ると、千尋がハクからおにぎりをもらうシーンが重なる。たぶん、あの時の千尋の気持ちってこんなだったと思う。

目の前のことを受けとめるのに精一杯だったのが、「今だけは休んでもいい」と言われたような。

普段はそんなことするような人じゃないというか自分よりもだいぶ若い女性を連れてお店にいく、とか結構気にするタイプだと思うから、それを思うと余計に沁みた。

今これを噛み締めて、元気になりたいという思いと、いっぱいの感謝を伝えようと「美味しいです、美味しいです」と何度も言った。

その人はこの業界に長くいて、理不尽な辛いこともたくさん乗り越えてきただろう話もよく耳にしていたし、そんな業界で育ったのだから厳しい人なのだと勝手に思っていた。でも、「のんびりやろう」「ちょいちょいっとやればいいよ」といつもはにかみながら私に言ってくれた。


結果、最後までやり切ることができた。週2日しか行けなかったので全面的には参加できなくて歯がゆかったし、美術監督にはきっとたくさん気を使わせてしまったけど。

この期間がなければ、心は落ち込む一方で、きっと何も手につかずに、色々なことが滞っていたと思う。

落ち込む暇もなく仕事に集中したり働くというのは、こういう時に結構重要なのかもしれない。


こういう恩って絶対に忘れないし、ずっとずっと感謝できる。

今回の仕事は単発のものだったけど、またいつか会うことがあったら、その人には何度でも感謝を伝えようと思う。

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