母をさがす
ショッピングモールで、母とはぐれたことがあります。
自分が子どもの頃の話ではなく、ほんの数年前の話です。
あの時は本当に、心底焦りました。
◇◇
かなり広いスペースで展開している百円ショップに二人で入ろうとした時のこと。母が、ちょっとトイレに行ってくる、と言いました。
トイレの入り口は店の入り口から20メートルほど先に見えており、何も心配はありません。
「ここで買い物しながら待ってる。行ってらっしゃい」
娘に見送られ、母は小柄ながらも丸々とした身体を揺らしてトイレへ歩いていきました。
幸運なことに、私が購入したいと思っていた写真立てのコーナーはお店の入り口すぐの場所に設けられていました。ガラスで仕切られたこの場所なら、母が戻ってくればお互いにすぐ気づけます。
私は安心して目の前の写真立てをじっくりと選び始めました。
素材は少々安っぽいけれど(100均ですから当然ですが)、デザインは本当にいろいろなものがあります。
天鵞絨タッチのもの、精緻な石膏調のもの、ラインストーンをちりばめたように見えるもの…
茶の間にふたつ、母の部屋にふたつ。
そして私の部屋にひとつ。
いつでも見えるように置いておきたい、天国へ昇った父の、いろいろなショットに合うイメージの写真立てを、気分良く選ぶことができました。
◇◆◇
5つの写真立てをカゴに入れたまま、しばらくトイレの方を見つめて待ってみましたが、母は出てきそうにありません。
少しの間なら動いても大丈夫だろうとレジへ向かうと思いのほかお客が並んでいて、支払いを済ませるのに5、6分かかりました。
さすがにもうやって来ているはずだと、私は母の姿を店内の通路の端々に探しながら写真立てのコーナーまで戻りました。
けれど母の姿はありません。
行き違いになったかな、と考え、早足で店内をくまなく探し回ります。やはりいません。
(さっきの天ぷらそばセット、食べすぎてお腹が苦しくなったのかも。止めたのに全部食べたからきばってるんだ、きっとー)
昼のランチを旺盛な食欲で平らげた姿を思い出し、私はトイレへ向かいました。
しかしトイレは、期待に反してしんと静まり返っています。耳をひそめても個室に人の気配はありません。
「お母さん?」
そっと呼んでみても、返ってくる声もなし。ドアを確認すると、すべて空きを示すブルー。
なんだか嫌な予感がしました。
私は100円ショップへとって返しました。
◇◆◇
さっきとは反対の方向からさらにくまなく売り場を見て回ります。
母はとても小柄で、人影に隠れて見失う可能性もおおいにありました。他の売り場に比べ、おしゃれにリニューアルしたばかりのその100円ショップには、平日にも関わらずわりとお客がいましたから。
右から左、左から右。
店内のあらゆる通路を3度往復してみましたが、やはり母の姿はないのです。
店を出て、その周囲の通路も他の店舗も探します。たとえばその前に二人で眺めたペットショップの子猫コーナーや、その隣の書店など。
それでも母は見つかりません。
心臓が急にドクドクと大きく音を立て始めました。
こういう場所では常に行動を共にするか、少しの間でも離れる時には、待ち合わせ場所をゼスチャーも使って明確に約束することにしていました。
なのに。
私はここにいるとちゃんと伝えておいたのに、目の前でトイレに入っていっただけの母が消えた。
その時の言い知れぬ不安は今も覚えています。
◇◆◇
母は重度の難聴です。
当然補聴器は装着していますが、年齢や病気の影響もあり、自在に会話を楽しむというわけにはなかなかいきません。
静かな空間で私が正面から大きな声で話しかければ、そしてその声を、母自身が集中して聞き取ろう、という気持ちになってくれれば、ようやくなんとか簡単なやりとりが成立する、という程度。
さらに一番聞き取りが難しいのは、こういうショッピングモールのような建物の中です。
あちこちの店で派手なBGMが流れ、店内放送が流れ、さんざめく人々の会話や靴音が常に反響している巨大な建物。
その中で、たとえば母の名前を店内放送で呼び出してもらっても、母自身が聞き取ることはまず不可能です。
◇◇
携帯電話も持たない、自分の名前を呼ばれても聞こえない。
さらに家からは車で1時間かけて来た場所です。路線バスも電車もなく、今の母1人の判断力では、とても帰るに帰れない距離です。
本人が不安になれば、きっと別れた店の前まで戻って来るだろう、と考えてはみたものの、すでにかなりの時間が経過。母はおそらく、娘とはぐれているという認識はないのだ、と思いました。
係員に協力を求めたところで、買い物客が少なくなる閉店近くにならなければ見つけ出すのは難しい気がしました。
いったいどこに行ってしまったのか。
2月の午後の陽の傾きは早く、焦燥感に駆られた私はさらに他の売り場を捜し歩き、それでも見つけだすことが出来ずに、混雑し始めていた夕刻の食品売り場へ走りました。
◇◆◇
「おーい」
人混みの中から、疲れ果てた私に向かって無邪気に手をふりながら現れ出た母の、小さな姿を見つけた、あの時。
身長140cmの、田舎の年寄りばあさんのはずの母は、雑踏を背にしてなぜか、不思議な輝きに包まれているように見えました。
例えるなら胸ポケットに忍ばせる、小さな金色の身代わり仏のような。
対する私は、たぶん鬼のような形相で立ちつくしていたと思います。
会えた!無事だった!…と安心して、膝から崩れ落ちるほど脱力すると同時にふつふつと湧いてきた怒りの感情を、私は抑えることができませんでした。
「どこに行っとったんよ!どれだけ探したと思う?心配したんよ!トイレ出て、100円ショップに来た?約束したやろ!」
罵るように母を責めたてました。
「お母さん、お店に来た?私が待ってる場所に来た?ずーっとずーっと心配して、待って、ほんっとに探し回ったんやから!!」
ショッピングモールのメイン通路で、中高年の親子とおぼしき二人が何を話していようが気にする人など皆無です。私は鉄のようにカチカチに固まった怒りを言葉に装填し、続けざまに母に向けて発射しました。
母は笑みを絶やさず答えました。
「あのな、トイレ出てから2階に上がったんよ。○子、いないかなと思って」
トイレのすぐ脇に、エスカレーターがありました。
◇◆◇
屋上に駐車した車に乗り込む時には、空はすでに濃い茜色に染まっていました。家に帰りつく頃には完全に夜です。
思いがけず激しく歩き回った疲れで重くなった足で、アクセルをぎゅっと踏み込みます。助手席の母は、普段なかなか来ることのない街の明かりを静かに眺めていました。
もともと車で外出するのが何よりも好きな母。
この日は、父が急逝してから本当に久しぶりの、母にとっては遠出といえるドライブでした。
このショッピングモールにも、父の運転で3人でよく来ていたのです。他界した年の春に訪れたのが最後となりました。
◇◇
思い出せば、あの時の父は歩き回るのに少し疲れた様子でした。通路の椅子に2度3度と座り休憩していました。
どうしてあの異変を、もっと深刻に捉えなかったのだろう。結局私は最期まで何もできない娘だった。
父が死んだあと、そんなふうに自分のことを責めるようになり、なかなかこのショッピングモールへ足を運ぶことができないでいました。
でもこの朝、なぜか唐突に(今日は行けそうだ)、と感じて、だからこうして母を連れ出して来たのでした。
父の笑顔や3人でのドライブを今日は落ち着いて楽しく思い出せそうだ、と思ったはずなのに。母は今、無事にこうして隣に座っているのに。私は何に怒っているんだろう。
そんなことを思いながら車を走らせているうちに、苛立ちは嘘のように消えていきました。
◇◇
母の耳は車中の会話も聞き取ることは十分ではないけれど、私はそれまでの自分の不機嫌を詫びる代わりに思いつくまま母に話しかけ、カーステの音楽に合わせて鼻歌を歌い、街の灯や美しい夕焼けにいちいちおおげさな感嘆詞を発し始めました。まったく勝手な娘です。
母は私の声は聞こえずとも、時おりこちらを見ては、表情だけで静かに相槌を返すのでした。
◇◆◇
ショッピングモールから我が家まで、車で約1時間。
その間には山深い道を通ります。
道程の半ばまで来た辺りで、空はすっかり濃紺の闇。
街を過ぎれば行き交う車もなく、雑木林の間を抜ける道に入り、大きなため池に沿って伸びるカーブを曲がり始めた直後でした。
突然するどい金色の光が車の中に差し込んできて、私の右頬を突き刺しました。
驚いて空を見上げたら、そこに光の主が出ていました。
くっきりと金型で抜いたように完璧な姿。
それは、「聖なるもの」とでも思わず形容したくなる、細く美しい三日月でした。
目をこらせば、かろうじて夜空との境界線を見分けられるかどうか。黒々と沈んだ山並みの稜線を、「聖なる月」は天上から静かに、きびしく縁取っていました。その優しくも荘厳な光景に興奮した私は、助手席で反対側の暗闇を黙って見つめていた母に叫びました。
「お母さん見て!キレイ!三日月!早く!」
カーステからはロックミュージックが流れ続けています。母に私の声が聞こえているかいないか、そんなことは気にする余裕もなく、私は母を呼んだのです。
母がゆっくりとこちらを振り向きました。
お月様を見上げ、その月光に照らされて、少し目を細めて言いました。
「あれ、あれは、眉月。」
まゆづき?
そう、女の描く眉みたいにうっすら細いから、まゆづき。
その優しい響きを聞いた瞬間、私はハンドルを握りしめたまま、声を出さずに号泣しました。
母娘でお互いをさがしあっていた、さっきまでは徒労だと憤りもしたあの時間は、愛しいものに変わっていました。
何年ぶりだか思い出せないほど久しぶりに見た柔らかい笑顔と、しっかりと芯の通った懐かしい声。
その声が教えてくれた、美しい月の呼び名を決して忘れないでおこう。そして母とふたりで、きっと天国の父を安心させる暮らしをつくってゆこう。
そう、心の底から思いました。
眉月の夜、さがしていた母に会えた私の、大切な記憶です。
(了)
長い文章をここまでお読み頂いた奇特な方がおられましたら誠にありがとうございます。
この後、母と私の暮らしは順風満帆か? …それはご想像におまかせします(苦)
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