ポジティブ思考に疲れたキミに
きっかけはテレビでこうコメントしていた人がいたことだ。
「こういう時ほどポジティブでいないといけない」
なろほど、さすがテレビに出ている人だと思った。
テレビに出演する人は誤解を恐れずに言うならば「成功者」と呼ばれる人たちだろう。
ここ1番の勝負を勝った人たちだろう。
その結果、勝負は勝てると自身の脳にインプットされている。
何かあったときに、ポジティブでいることで勝ち続けてきたのだろう。
しかしだ。
そのポジティブ思考がその人自身を追い込むことを知っているのだろうか。
正確には「ポジティブでいなければならない。ネガティブは悪」という考え方で「だから自分はダメなんだ」と思ってしまう人がいる。
ここではっきり言っておく。
無理にポジティブでいる必要は無い。
こういう風に言うと決まって「だったらネガティブで良いのか」という言葉を聞く。
そうではない。
ポジティブでも、ネガティブでもない考え方を身に付けると良いのだ。
あるがままに物事を見る、事実だけを見る「ニュートラル」なものの見方。
無理に明るくする必要は無い。
落ち込んでしまうこともない。
ただ、目の前に起こることだけを見る思考法。
人からの目ではなく、自分自身の感情に従って生きていく方法。
この文があなたの助けになれば幸いです。
ざくろ
どんな感情も大切
「暗い気持ちは排除しましょう」
そんなことを謳う本や人が非常に増えたと思う。
明るくなければいけない、後ろを向いてはいけない。
その言葉をぶつけられて明るく振る舞う人が多い。
しかしこのポジティブ症候群は、悲しみや怒りという感情を無視するようにコントロールしてしまう。
悲しいがあったときに「前を向いて動かなければいけない」
辛い目にあっても「歯を食いしばって向き合わなければならない」
そんなことはない。
あなたが感じていることは、あなたにしか感じられない大切なものだ。
悲しいなら涙をこぼしていい。
辛いなら逃げてもいい。
そこに人の意見は必要ない。
大切なのは「あなたがどうしたいのか」だけだ。
もし、悲しくても頑張りたいなら、頑張るといい。
悲しくて動けないなら、誰かに甘えればいいのだ。
感情のキャパは人によって違う
「そんなことで動けないの?私なんかもっと辛い目に遭っているよ」
こういう言葉をあなたに投げかけてくる人がいたら、なるべく距離を取った方がいい。
それは人によって感情のキャパシティが違うからだ。
それはあなたが弱いからではなく、動ける範囲の違いだ。
初めてランニングをした人は2キロも走れないだろう。もしかしたら、もっと早く息が上がってしまうかもしれない。
もしランニングをしていてこれ以上走れないとなったら、勇気を出して休むのだ。
周りの人に追い抜かれることも心ない言葉が飛んできても関係ない。
あなたはあなたのペースを守ればいい。
そして休んでいる最中に自分に聞くのだ。
「この道、本当に走りたい?」と。
あなたはあなたの走りたい道を走っていいのだ。
その言葉、本当にあなたのため?
「あなたのために言っている」という言葉はどこにでも溢れている。
しかし、本当だろうか?
これは実際にあった話なのだが、その人は病院が嫌いだった。
ずっと腰痛に悩まされていて日頃から少し歩くたびに痛みを感じながら生活していた。
家族からは何度も病院に行けと言われていたが、頑として聞かなかった。
ある日とうとう限界を迎えて身動きが取れなくなり、家族に病院に連れて行ってもらうように頼むと家族はこう言った。
「あなたのために病院に行けとあれだけ言ったでしょう」
この人はこの出来事をきっかけに「あなたのため」という言葉は自分のために言っている言葉だと悟ったという。
「あなたのため」という言葉は自分が手助けをした証拠を残すためだと。
責任のある人間は行動の提示はするが、相手に判断を委ねてくれる。
そして助けを求めたときに快く手を伸ばしてくれる。
もし度がすぎる態度を取っていた場合、叱るのはそのあとだ。
赤信号の真ん中にいる人をそこで説得していては2人とも轢かれてしまう。
まず安全な場所に連れていくところからなのだ。
思考の癖は個性
ポジもネガも実は「そういう方向に考えやすい個性」でしかない。
それはアウトドアとインドアに優劣がないように、ポジにもネガにも優劣はないのだ。
何事もポジティブにだけ考えていたら、失敗することを考えずにただ前に進むことしないだろう。
道を走る最中に見える素晴らしい景色や人との触れ合いを疎かにして、ただ足を動かすことが目的になってしまうほどのポジティブさは、かえって不健康に見えるだろう。
逆もそうだ。
慎重になりすぎて、失敗のことしか考えないのも違う。
走ると転ぶかもしれないと足を動かすことをやめて、今居る場所で手の届く範囲でしかものを求めない。
この2つの例は極端だが、どちらも突き詰めていくと不幸なのはお分かりいただけるだろう。
占いの太極図という陰陽が描かれた円があるが、それも白の中に黒が、黒の中に白があるように描かれている。
ものごとはどちらか一方に偏ってはいけないのだ。
どちらも見る、という考え方
考え方が極端になると不幸なのは先に書いた通り。
ではどうしたらいいのだろうか。
私は「物事をそのままで見る」ことをオススメしたい。
それはどういうことか。
例えばコインがある。
表がポジ、裏がネガと決めてコインを投げる。
そうすると必ずどちらかの面が上になる。
この場合、ポジ・ネガのどちらかだ。
しかし、物事に完全にポジな出来事、ネガな出来事はあるだろうか?
それこそコインのように「今回は」ポジの面が出たに過ぎないのではないだろうか。
私の物事の見方は、「コインそのもの」を見る。
つまり、1つの物事に対してポジ・ネガ、どちらも見て最終的にそのコイン自体を使うかを決めるのだ。
チャンスという名のコインはそこかしこに転がっている。
1枚無くしても、次を拾えば良いのだ。
視野を拡げる
「チャンスはいくらでもあるという言葉はポジティブだから考えられるんだ」という言葉が聞こえてきそうだ。
その通りだ。
その際にはポジティブな面を「使って」いる。
先ほども言ったとおり、ポジとネガにそこまで距離はない。
ある物事に対して両方の面があり、その中だポジ・ネガ、どちらを選ぶのかを決めるだけ。
そのために、どれほど広い視野を持てるのかが大切になるのだが…。
もしこのタイミングでネガティブな面しか見えなかったら、それはあなたの健康状態を疑った方がいい。
物事に完全なネガティブがないことはお伝えした。
その上で完全なネガティブしか見えないのは、あなた自身がネガティブに偏っているときに起こりやすい。
その物事は出来る限り先延ばしにして、自分自身でのんびりと休むことを優先してもらいたい。
悪意は別次元
1つだけ完全にネガティブな面しか見えない時もある。
それは「人の悪意が存在するとき」だ。
これはコインで言ったら裏面を2枚合わせでくっつけられている状態のことで、そもそもとして渡してきた人間が勝つためだけに作られた物だ。
先の例に挙げた「あなたのために」がこれに当たる。
そんなコインは掴んではいけない。
そのほかの特徴は極端に短い時間制限が挙げられる。
「本日中」や「この場で」と決断を急かす場合「あなたのため」と同じく持ちかけた人間が急いでいるだけと思ってもらいたい。
振り回すしてくる人間を相手に消耗する必要は無いのだ。
自己肯定感っているの?
ポジティブ思考と共に流行っているのは「自己肯定感を高めよう」という言葉。
たしかに自己肯定感があった方が生きやすく思える。
ここで「思える」という曖昧な表現をするしかないのは、私自身が自己肯定感が無いからだ。
ここは今まで見せてきた強がりを捨てるが、私は自分が何も持っていないと思っている。
占いをしていてもnoteを書いていても、私より素晴らしい人はたくさんいるし、どれだけフォロワーが増えてくれても、何で自分なんかを?という気持ちが拭えない。
人の目は気にするし、自分の過去には襲われて、叫び声を上げながら風呂に入っていることもある。
そんなときに考えているのは「それでも今いきているからな」という爆然とした自分だ。
死にたいではなく、消えたいと思いながら同時に頭を駆け巡るのは、机の引き出しのエロ本を捨てなければざくろは2度死ぬという思いだ。
話はずれたが、私は自己肯定感が無い。そしてあげようとも思っていない。
ポジティブ至上主義と同じように自己肯定感という言葉もあなたを追い詰めているのならそんなものはいらない。
充分生きていける。
私の好きな漫画で「めだかボックス」という漫画では物語最弱の男がこう言っている。
「あなたより不幸な男がどこかでヘラヘラ笑っていることを思い出せ」
私はこの言葉で別に人を見下してもいいと許可を得た。
あなたにこの言葉を贈って、自己肯定感のない占い師でもヘラヘラ笑っていることを思い出してほしい。
事実を見る練習
ポジティブ至上主義にやられる人の特徴に「人より繊細」という特徴がある。
私自身その傾向が強いのだが、きちんとした診断ではないため、言及は避ける。
繊細な人は「ポジティブでいよう」と言われるとポジティブじゃないと否定された気持ちになる。
というよりも、その言葉に込められた圧力が鋭く刺さるのだ。
人と話していて「そうは言ってないでしょ」と言われたことのある人は繊細な精神を持っていると思っていい。
うん、辛いよね。
事実、私も「言葉では言っていない感情」に振り回されてきた。
究極な話、相手は本当にそう思っていない可能性が高い。
それでも受け取ってしまう、そのせいで凹んでしまう。その繰り返しだ。
そんなときにして欲しいのは「文字だけ」を受け取るスイッチをつけて欲しいのだ。
自分が過剰に受け取っているものを減らすのだ。
その上で、言葉通りに受け取ってそれでも相手の言葉が辛いならミュートすればいいし、もしそのスイッチがつけられないなら、そもそも自分をすり減らす相手から距離をとっていい。
ポジの圧に潰されることも、ネガに引っ張られることも、あなたから距離を取るのだ。
それが難しいのなら、本格的に場所を変える行動をしたほうがいい。
あなたの感性はあなたにしか分からないのだから。
究極の話
最後にこれだけは言いたいのは、誰かのために生きなくていい。
自分の命の使い方は自分で選んでいい。
その事に、正誤はないのだ。
ただ、私の記事をここまで読んでくれた人が、いなくなるのは少し寂しい。
本音を書くので言葉は選ばないが、少なくとも反応してくれた人がいなくなるのは少しだけ寂しい。
それでも私は生きていくだろう。
それは死ぬ理由がないからだ。
生きる理由があるのではない。
死ぬ理由がないのだ。
もしあなたが生きづらいのなら私に声をかけてみてもらいたい。
あなたのことを無責任に「素晴らしい」と言おうと思う。
あなたの周りの生き辛そうな人に伝えてみて欲しい。
私は私のペースで生きていく。
淡々と、目に写るものだけを見ながら。
ざくろ
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長峰永地の哲学note
毎日更新しているnote 人とはどのように生きるのかを一緒に考えて参りましょう
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