何が幸せかは、あなたが決めていい
「幸せ教からの脱出」
今の世の中で幸せが安売りされていると感じて長い。
幸せにならねば人に非ず、そんな感じだ。
私にとっての幸せは理解者を得ることなのだが、その時点でこの幸せ計画は詰んでいる。投了するしかない。
なぜなら、人は人を理解できないからだ。
どんな優秀な心理学者も、すべての人間の心を見抜くことはできない。そのことを否定する心理学者がいたら、私は似非と判断する。
人間と人間は分かり合えない。
このことを認めなければ、人間の相互理解はできない。
人間の1番妥協できる理解点が、お互いのことを理解できないと認めることなのだから。
こんな、一般的な人が聞いたら絶望しそうな書き出しで、どの口が幸せを語るのか、という疑念は、ひどく正しい。
今回の記事で書く内容は一般的な幸せ論に準ずるつもりはない。
究極のことを言ってしまえば、あなたが幸せと思えば、それは幸せなのだ。
そして、幸せの基準は相対的なもの。
どれだけ、 不運に見舞われても幸福な人はいるし、どれだけ幸運でも不幸な人間はいる。
そして私は勉強する人は基本的に理不尽さに苛まれる幸福な人だと思っている。
勉強とは、マゾ以外できない。
なぜなら、自分の一生で獲得し切れないほどの知恵がこの世には溢れている。私がいつも感じているのは、なんでこんなに力が無いのか、という絶望だ。
コミュニケーション、影響、人徳に、お金。
勉強で得られることばかりにも関わらず、私は未だに持っていないのだ。
正直、欲しいさ。
同時に、今の自分に授かるべきものを授かっているとも感じている。
じゃあ、私が宝くじで億万長者になって、今の知恵で何ができる?
ただ、消費しながら生きていくだけだろう。
少なくとも、ほんの3年前ではそうだと思うし、5年前なら確実だ。
この期間を長いと見るのか、短いと見るのかはあなた次第だ。
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