人間とは人智の及ぶところに無い
1行で矛盾しろみたいなことになっていますが、今回の記事は、私の内観に近しい記事となっています。
Twitterをフォローしてくださっている方はご存知の方も多いと思いますが、私は過去に役者を目指して勉強していた時期がございます。
高校を卒業しておよそ7年芝居に関わり、様々な人間模様をリアル、脚本内ともにみてまいりました。
そうして思うことは、人間が人間を知ろうという行為がおこがましいという観念です。
そもそもとして、自分の感情にすらウソをつくことに慣れている人間が、他人の行動、心理を理解することなどできるでしょうか?
正直、この考えに至ったのは占いを始めてからですが、根っことしては、常に別の生き物を見るように芝居をしてきたと思います。
芝居を通じて学んだこと
私が芝居を学んだ師匠と呼べる人間は、2人だけです。
ある声優と、演出家。
声優の方に基礎を作っていただき、演出家に人間を学んだ。
声優の方は、支配の人でした。
「あるセリフを言わせてみろ」という課題。
私と会話したことのある人はご存知かと存じますが、私の呼吸を盗むテクニックは彼から教わりました。
相手の空気を読み取り、乗るか、奪うか。
このテクニックは、誰にでも使えると思っていましたが、実はそうではなかったことが判明しました。
それは、リアルであっても相手の話を聞いていない、理解できない存在がいることを最近知ったからです。
会話とは、実はある程度の知能がないと成り立たないんですね。
続いて、人間を知った事実。
人間は多色だということ。
こうして記事を書いていると自責の念に駆られますが、多くの人、特に私は他者を一色で塗りたがります。
この人は、赤。この人は青。そんな風に。
しかし、そんなことはありえるでしょうか?
あなたの中に白、黒があった時。
完全な白、もしくは完全な黒だったことはあるのでしょうか?
おそらく、無いはず。
好きだけど、嫌い。
嫌いだけど好き。
このどちらも、ひどく正しい感情です。
もし、この感情を理解できないのであれば、もっと世界を知ってほしい。
というより、正しいも、間違っているも、客観はあり得ません。
役者時代、なぜか想い人がいる役が多かったのですが、その配役で相手は全てと言って良いほど嫌いな人間でした。
それでも、お客様に気付かれない芝居の必要がある。
はっきり言って、苦痛でした。
その苦痛の原因は、今ならわかります。
1番嫌いなのが、自分だったから。
今もさほど変わっていませんが、自己肯定感は今以上、比べ物にならないほど低かった。
自分に自信が無いから人に責任をなすりつけ、逃げていたんですね。
今、実は過去に襲われながら書いています。
この過去に襲われる、という現象は厄介で敵うわけのない敵と戦い続けることを強制されます。
あの時、こうしておけば、違う人生だと。
今の人生も気に入っていますが、第1希望ではありませんからね。
本当にしたいことを知る
役者で何がしたかったのか。
そのことを向き合った時に「有名になりたかった」「認めて欲しかった」そんな思いばかりが出てきます。
成功しなくてよかったと思います。
今、こうして記事を書くこと、目的の中にお金はもちろん含まれます。
しかし、1番強いのは、私の知恵で1歩でも進める人を増やすためなんですよね。
こういうことを書くと、またなまくらになったとお叱りを受けそうですが。
その叱ってくれる人からオススメ受けた漫画、アクタージュ。
そのせいで、火がついてしまったんですね。
役者とは不思議な生き物です。
芝居をしている時、苦しむために舞台に上がる役者もいる。
役がらの場合もあるし、私は1度も舞台で楽しく思ったことはありませんでした。
それでもまた上がりたくなる。
一種の中毒なのでしょう。
結局、私は、芝居を通じて、私の世界を知ってほしいだけ、というのは何年も前からわかっていることでした。
今、こうして芝居だけではなく自分の世界を共有してくれる人が増えてきているのは、全く考え付かなかったことです。
しかし、まだ足らない。
全員に必要とは思いませんが、私の考え、知恵、経験は、必ず人の力になると思っています。
おそらく近日、というか準備が整ったら、小説を出すと思います。
その時もぜひお付き合いください。
ざくろ
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長峰永地の哲学note
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