スネ夫について考えてみた

人を叩いて楽しいか

現代、刺激を求める声は多い。
お手軽、無料の人を叩いて貶める刺激だ。
その刺激が人が求めているのか、注目を集めたい人が火の無いところに煙を立てているのかわからない。

人は自分を見てほしい生き物だ。
その注目をいち早く集める方法として人を叩くことが一番早いのも事実であろう。

人が人を攻撃するときは大きく分けてふたつある。
その人物があまりにも倫理観に外れており、社会性を保つために潰しておかなければ害悪となる場合。
もうひとつは圧倒的に構ってほしい時だ。

いじめられっ子ムーブはみっともない

国民的アニメ「ドラえもん」
この中でスネ夫のキャラクターは基本的に弱いキャラクターだ。
本人の力ではなく、周囲にあるものの力を利用して自分を大きく見せる腰巾着のポジションでいる。
そのためだろうか、映画では洗脳されて悪役に落ちることが多い。

穿った見方であることは重々承知で申し上げるのだが、スネ夫は自分になんの力もないことを気付いているのではなかろうか。
自分には何もないから他のものの力に頼るしかない。
そんな自分が嫌だから、より他のものの力に頼るしかない悪循環。

自分自身の力を養えばいいのだろうが、大きくなってしまったプライドが頭を下げることを許さない。
一度自分で上げてしまったハードルを下げることができないのだ。

スネ夫はどうすればよかったのだろうか。
自分に力がないことを認め、有り余る親の財力を利用し、コミュニケーション術、知識に全振りした教育を受けていけばよかったのではないだろうか。
基本的にスネ夫が求める物も、親が買い与える物もすべて形のある品物だ。
これが同額を教育につぎ込んでいたのだとしたら、おそらく出木杉よりも成績が上がっていたのではないかと推測できる。
スネ夫も、親の教育の被害者と思うと少し同情を禁じ得ない。

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