わたし

スーパーに行ったが、いかげそは売られていなくて、絶望した。

いかげそだけは売っていなかったので、やりいかを買って、イカ丼にして食べた。

げそも含まれているから、気持ちとしては、イカ丼ではなくて、「げそも(ある)丼」のような感じで、とにかく、食べたかった味のものが食べられたので、げそは売っていなかったけれど、別に絶望する必要もなかった。

今日は雨が降っていたので、最初あまり気分が乗らなくて、ぼーっとすごしていた。

午前中、何をしていたのか、思い出せない。

思い出した。

ノートを書いていた。

雑ノートだ。

昨日も今日も、というか、最近ずっと、雑記帳を書くのが楽しくてしかたなくて、もはや、最近の趣味なのではないかとさえ思っている。

何を書いているのかというと、このnoteさながら、思いついたことをひたすら書いていて、書いているうちに腰をすえて考えたくなることがでてきて、今日は、わたしの手帳術はどうやったら進化するかについて見開きで書きながら考えた。

結論がどうなったかは覚えていない。

雑ノート、つまりは雑記帳は、別に覚えておくために書いているわけではなくて、書いている時間にこそ価値がある。

人間の脳というのはおもしろくて、書いて忘れてしまったとしても、ちゃんと仕事をしてくれて、いつのまにか考えが進化していたりする。

雑記帳といえば、ブロガーのヤキスーさんが、「雑記ブログを書いている人のなかに、カテゴリー分けをちゃんとしていない人が見受けられる」という意味のことをどこかに書いていた。

カテゴリーをきちんとさせたら、それはもはや雑記ではないわけだから、ヤキスーさんが言っていることは、じわじわとおもしろい。

要するに、「雑記ブログを、雑記のように書くのはよくない」ということだからだ。

他の人の意見というのは、こういう感じで、発言者の意図がどうあれ、感覚やら背景やら、とにかく人というのはそれぞれ違うんだということがわかっておもしろい。

わたしは、これをリハビリがてら書きなぐっている。

書くというのは、今はやりの、「わかりやすい文章」なるもののことではない。

小説にしろ評論にしろ、結局は、自分自身について書くしかなくて、しかしそれは「私は」と書くという意味ではない。

例えば「今年の静岡学園は、前回優勝したときほどには色気がなかった」みたいな文章を書いたとしたら、それは一見静岡学園について書いているけれど、最終的にはわたし自身のことを書いていることになる。

静岡学園が高校サッカーで優勝した。

青森山田に0-2から逆転できるというのは、本物の実力がなければできなくて、テクニックというのは、最後にものをいうのだということをあらためて教えてくれた。

1回戦をスタジアムで見たが、あれほどまでに、「全員うまい」と感じたチームを、高校サッカーでは初めて見た。

全員うまいにも種類があって、たとえば望月嶺臣が3年生のときの野洲を見たときも「全員うまい」と感じたが、個としては、望月を始めとした数人しか印象に残らなかった。

今年の静岡学園は、1試合見ただけで、途中出場も含めた選手全員の魅力がわかって、それは簡単にいうと、「全員うまい」ということだった。

とくに、MFの16番のボールの持ち方がすごくて、いかにも静岡学園の選手らしく、歩くようにプレイしていた。

そんなチームだから、前回優勝したときよりも数段強かったが、1994年度のほうが、好みだ。

それは、グアルディオラのバルセロナよりも、クライフのそれのほうが好きだというのと、似ているかもしれない。

色気の問題なのである。

色気といえば、数年ぶりに、オシャレ熱が復活してきていて、とにかくキレイにしたいし、かっこよくしたい。

かといって、以前のように、「買いたい」という欲求とは異なるので、わたしも成長しているらしい。


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