おおしま

いかげそ丼をつくりたいのだが、油が危ないので、たまにしかしない。

明日、つくってみようか。

『私は小説である』を読んでいて、小島信夫とベケットの話のあと、今読んでいるところは、小沼丹の話になっている。

なっている、と書いたが、わたしは、小沼丹の小説を読んだこともなければ、名前すら知らずに、Wikipediaを読んだくらいだ。

にもかかわらず、『私は小説である』を楽しく読んでいて、読書というのはこういうものだと感じている。

こういうものとはどういうことなのか、実は上の文章を書いた時点ではわかっていなくて、「こういうものだ」と書いた後、それがどういう意味なのか考えようと思っていた。

で、考えるわけである。

わたしは、小説が好きで、関心がある。

佐々木敦の書くものも、好きだし、信頼している。

そして、文脈として、小島信夫の話の流れで小沼丹が出てきているのだから、わたしの関心とまったく関係のない話題ではないだろうと思う。

という感じで、知識から知識をたどっていく旅のようなものだと思うのだ、読書というのは。

みたいな話をしたかったのかもしれない。

違うかもしれない。

まだ1/3くらいだが、ずっと読んでいたいと思わせる本だ。

知識をたどる話で思い出したのだが、各分野で、少なくとも自分にとっては重要だと思っている本というものが、ある。

わたしには、ある。

あなたにもあるかもしれないし、何のことかわからないかもしれない。

そういう重要な本を、なんと呼べばいいのだろうか。

松岡正剛は「キーブック」とたしか読んでいたし、佐藤優は、「基本書」と呼んでいたかもしれない(記憶も曖昧だし、意味も違うかもしれないが、わたしは、松岡、佐藤の本を開いて調べるということをしないでこのまま書いてみようと思っている。そのほうがよさそうだからだ。よさそうというか、おもしろい文章になりそうだからである。誰にとってかというと、わたし自身にとってなので、あなたにとっては迷惑なことの可能性もある。ごめんなさい)

「コア本」、だろうか。

ある分野の知識との接点は、簡単な本、たとえばサラリーマン本かもしれない。

しかし、それはあくまで地表というか、表面なので、それを読んで「わかった」と思ったら、おしまいである。

そういう読書は、たとえ1万冊読んでも、知識など何もつかないし、もっというと、すればするほどつまらない人間になるのではないだろうか。

だから、自分にとってのコア本は、ある程度、古典か専門書になっていったほうがよくて、そうなっていない分野は、知識が浅い分野なのかもしれない。

もっとも、例えば料理などのように、知識というのがほとんど実践知を意味するような分野は、読書をする必要がないわけだから、料理をする人にとっての読書は、レシピ本などの実用書は別として、料理をする人自身の心を豊かにする本を読むようなことを意味するのだろう。


4月までに、商品をつくりたい。

何の商品かというと、文章だ。

今年は、文筆業に挑戦しようと思っていて、どうやったら文章でお金をもらえるかわからないが、とにかくやってみる。

生活も、結構変わっていきそうで、かといって、今すぐ変わるわけではないので、まずは3ヶ月やってみようと思う。

それには、時間の使い方を見直す必要があって、わたしにとっては、スマホを見ている時間が大敵である。

SNSもそうだし、YouTubeもそうだし、無駄な検索もそうだ。

とにかく、不要である。

そんなことをしている暇があったら、一文字でも多く書きたい。

書かなくても困らないのなら、結局なし崩し的にさぼるかもしれないが、今回は違う。

本当に、トレーダーではなく、文筆家でいたいのである。

いしざわ、文筆家宣言。

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