家は快適な場であってほしい

こんばんは、ざきペイです。
いよいよ月初め定期noteになりはじめています。
月初めどころか中旬に差し掛かっているわけですが、今回も書いていこうと思います。

先月末には書かなきゃな~の意思があり、一切忘れていなかったのですが、とあることがありお時間をいただいておりました(そこ、とあることがなくても時間とってるだろとか言わない!)
実はコのものが我が家にもやってきてました、今は完治しているので書き始めるにあたりました。
ここまで自分も含め家族がかかることもなく、運よく濃厚接触扱いされることもなく生活していたので、絵空事にさえ感じるほどでしたが、ついにでした。
原因が何だったのかは未だにわかりませんが、一人が持って帰ってきて陽性が確認されて看病にあたっていたもう一人が感染して、計二人がなるという割と危ない状況ではありました。

というわけで、濃厚接触者として生活していたのですが、正直家族に会っている時間は元々そんなに多くなく、接触はしても「なんか久しぶりに見た~」みたいな会話が繰り広げられるほどなので、不本意も不本意な濃厚接触者でした。

それでもって家の中で新たに感染があったということで、単純な距離以外にも自室で食事したり、自室を出るときはマスクをつけたりと厳重な生活を送ることになりました。
私は比較的マスクをして出かけても不快に感じない人間でしたが、自宅でつけるという行為にはどうにも抵抗があったようで正直とても不便な生活を送りました。
外出は元から少ない人間なので影響自体は少なかったのですが、不便というより不快に近い感覚を覚えました。

そんな生活を送る中で気づいたのは、私にとって「家は快適な場であるべき」といった感想でした。
マスクをつけるということはもちろん、何かに縛られない場所であってほしい願望が強いのだと思います。
そういえば宿題や課題という概念も苦手だったなぁ…と思い出したり。
要は気の抜ける場所であってほしいのだと思います。

少し遡りますが、リモートでアルバイトしていた頃がありました。
正直リモートって見えてない分自由で気の張り方が難しくないですか…?
私にとってそれは快適であり、同時に不快でもありました。
自分のペースを確立させられる環境は快適としてよかったのですが、同時に快適の中に労働という不快な要素を混ぜ合わせているのが息苦しさを感じたのだと思います。
加えて、言葉を選ばずにいうのであればサボっている(語弊あり)自覚を持ちながら仕事するのが気持ち的につらかったように思います。

昨今家にいる機会は増えてきて、それなりに過ごせてはいると思っていたのですが、私の中で家は快適であってほしいようでして。
そもそも稼いだお金は快適な生活のために充てられるべきだなと思ってたり。

そういえば、英語におけるhomeとhouseの関係を思い出しました。
少なくとも私にとって、この記事において家はhouseではなくhomeなんだと。
homeには所謂ふるさと的な意味合いもあって、それに近いのだと思います。

そんなこんなで今は快適な家に戻ったのでこのnoteを書けているというお話でした。
今回はこんな感じでしょうか。
「あれ、あのこと書かないんだ」と思ったそこのあなた、安心してください。ほかに書くことがなければ次回多分書きます。具体的内容は思いついてないけれど。

ということでまた次回。
ざきペイでした。



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