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あんときの犬

「ナヒ」と数年間呼んでいた犬の本名が「チビ」だと気づいたのは、死んで数年後のこと。犬小屋が解体されて、名札のところに消えかけの濁点や線があった。あいつはチビだったのだ。

 向かいの家にやたら賑やかな犬がきた。白くていつも口が数センチ開いていて、小屋の周りをグルグル回っている。ダンプカーが通過すると「ワン」わたしと友だちが自転車で前を通れば「ワンワン」。何かあればとにかく舌をベロベロ出しながら吠える。唸ることはなかったので、もしかしたら悲しいとか怖いとか怒りとか、そういう感情では吠えない子だったのかもしれない。

 ごはんは、鍋にぐちゃぐちゃに入れられたおじや。一度ナヒの食事に遭遇したのだが、鼻先を全部突っ込みむしゃむしゃと食べていて、わたしたちが来たことにすら気づいていない。帰り際にもう一度通りがかったら、小さな声で「ワン」とひとつだけ鳴いた。

 ナヒのことを一度だけ散歩に連れていったことがある。プランターのベゴニアを食べたり、カナブンを足で一撃したり、目を離せばいたずらばかりしようとするので「コラ!」と30回ほど言った。そのたびに「ボフッ」と返事をする。

 30分ほどリードをグイグイ引っ張られ遠くまで来ると、ピタリと止まって動かなくなってしまった。

「おい、家がわかんなくなったのか?」

 帰巣本能が強いと言われている犬が、本能を打ち消すほどにはしゃいでいた。しょんぼりとして座りこみ、座ったかと思ったら立ち上がってぐるぐると回る。今度はこちらが家の方向にぐいぐいと引っ張ってやった。近くまで戻ると家だということを認識したのか、しっぽをぶんぶん振り駆けていく。犬小屋に着いたら、何も入っていない空の餌皿をベロベロと舐め始めた。

 ナヒはこの後も12年くらい生きて、晩年も前を通るたびに「ワンワン」と吠えた。

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