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毛皮のマリーズを知っていますか

毛皮のマリーズは、2003年に結成された日本のロックバンドである。
男女4人によって構成される。
略称として「マリーズ」が多く用いられ、彼らのファンはマリーズメイニア(MARIES MANIA)と呼ばれる。
2011年12月31日をもって解散した。

バンド名の由来は 寺山修司の戯曲「毛皮のマリー」から。
メンバーは志磨遼平、越川和磨、栗本ヒロコ、富士山富士夫の4人。

2001年、志磨遼平が前身バンド「うつろ」の活動中にメンバーを残して単身上京。
ライブの機会もほとんどなく、作曲活動のみの時期が約2年続く。

2003年2月、志磨の中学時代からの親友である越川和磨と、同じく高校の同級生であった栗本ヒロコが上京。
そこに前身バンドからのドラマーを加えて「毛皮のマリーズ」を結成、ライブ活動を開始。
6月、最初の自主制作CD(“シスターマン”含む全6曲収録)完成。
関西ツアーを行うも、9月にドラマーが失踪。

2004年4月、自主制作盤『初期名曲集』(“サンデーモーニング”の原曲含む全5曲収録)完成。
サポートドラマーと共に単発的なライブをこなしながら、2曲収録のカセットシングルを毎月発表。
12月にはアルバム『毛皮のマリーズの世界』(“DIG IT”、“悲しい男”含む全8曲収録)を制作。
この時期、志磨と越川は元ちぇるしぃの馬場崇に誘われ「The Shock」としても活動している。

2005年3月、ドラムを叩いた経験のない富士山富士夫がドラマーとして加入。
それまでの70年代ストーンズやフォーク、グラム・ロックに影響を受けた王道のロックンロール・スタイルから、荒々しく乱暴なストゥージズ、ニューヨーク・ドールズ、MC5、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドらのアーリー・パンク的なスタイルに傾倒。
メンバーのパフォーマンスも徐々に凶暴化。
楽器を破壊して演奏が終わることもたびたびであった。
8月、この体制で初の自主制作盤(のちに『戦争をしよう』に収録される全8曲)完成。
12月、馬場崇を頼ってメンバー全員で京都への移住を計画。
しかし、移住前夜にインディーレーベルDECKRECのオーナー、ネモト・ド・ショボーレと出会う。
手渡された自主制作盤を聴いたネモト氏は、その日のうちに契約を打診。
これによってバンドは以後も東京に残留、練馬区で共同生活(毛皮ハウス)を開始。

2006年9月、インディー・デビューアルバム『戦争をしよう』をリリース。
ガレージパンク・シーンから「東京のストゥージズ」と目され、ライブ数が急激に増加。
11月、初の全国ツアー(全11公演)を敢行。

2007年、50年代アメリカのオールディーズ〜R&Rに傾倒したアルバム『マイ・ネーム・イズ・ロマンス』を発表。
初のワンマン公演の成功や野外フェスへの出演など徐々に人気が高まるも、志磨の無理難題ばかりをうける越川が苦悩し、活動に影響が出始める。

2008年、前作と同時期に制作されていたEP『Faust C.D.』リリース。
バンド史上最も凶暴な作風で、ステージでも志磨と越川が乱闘を始めるなど、バンド内は混乱を極めていたが、かえってそれが話題となり集客はどんどん増えていった。
新曲制作やリハーサルなど、ステージ以外の活動は一年近く休止状態であった。

同年12月、DECKRECを離脱。
バンドは自主レーベル「JESUS RECORDS(イエス レコード)」を設立し、第一弾シングルとして新曲『ビューティフル/愛するor die』を発表。
これが各方面で絶賛され、オリコンチャートにも初めて顔を出し、バンドはようやく息を吹き返す。Zepp大阪でニューヨーク・ドールズと共演。

2009年、作曲からレコーディングまでわずか一ヶ月で完成させた内省的なアルバム『Gloomy』が反響を呼び、メジャーレーベルと契約。
タワーレコードでは共同制作の月刊フリーペーパー「毛タワのマレコZ」が配布開始。
音楽誌でも初の表紙を飾る。

2010年 4月、日本コロムビアよりアルバム『毛皮のマリーズ』でメジャーデビュー。
富士山加入前の王道のロックンロールへと回帰。
"日本におけるロックンロール・リバイバルの旗手”として様々なメディアで一斉に取り上げられる。
5月から“Restration TOUR”(全17公演)がスタート。
10月には1stシングル『Mary Lou』を発表し、東名阪で“コミカル・ヒステリー・ツアー”開催。

2011年 、全編が弦楽四重奏や管楽器、ピアノで構成された「東京」をテーマとしたコンセプトアルバム『ティン・パン・アレイ』を発表。
オリコンチャート6位を記録。
4人では再現不可能の為、リリースツアーの代わりとしてインディー時代の曲だけを演奏する“MARIES MANIA”ツアー(全8公演)を敢行。
東日本大震災をはさんで行われたこのツアーはフォトグラファーの有賀幹夫が同行し、のちに写真集『夜明け』として発表される。
ツアーファイナルには一夜限りの『ティン・パン・アレイ』完全再現コンサートを東京C.C.Lemmonホール(現・渋谷公会堂)で開催。

6月、ロンドンのアビー・ロード・スタジオでラストアルバムとなる作品の一部をレコーディング。
帰国後、初のフジロックフェスティバルを含む計11本の野外フェスに出演(この年のフェス出演者の中で最多記録)。
公式HP上でカウントダウン開始。

9月7日、秘密裏に制作を進めていた(厳重な戒厳令が敷かれ、アートワークはおろかアルバムタイトルすらリリース日まで一切告知されなかった)作品が『THE END』の名で店頭に並ぶ。
ポスターにはショップスタッフが入荷当日に手書きでタイトルを書き込むよう指定されていた(店頭で完成するアートワークでの解散パフォーマンス)。その夜、全国のFM44局をジャックして志磨が解散宣言。

10月、ラストツアー“Who Killed Marie?”(全19公演)を開催。

12月5日、ラストライブを日本武道館で行う。
同25日、公式HPのカウントダウン終了。
メンバーからのメッセージと共に未発表の新曲“クリスマス・グリーティング”が流れる。
同31日、解散。
公式HPも消滅した。

ロックの古典のオマージュを得意とし、志磨は「ヒップホップのサンプリングを生演奏でやっているバンド」と自ら説明している。
また、「毛皮のマリーズがまだやってないことをやる」をモットーとし、アルバム発売毎にスタイルは大きく変化していった。

自他共に認めるワンマンバンドで、楽曲のアレンジ、ライブの演出、衣装、アートワーク、ミュージックビデオに至るまで志磨が事細かに注文を出していた。
メンバーがレコーディングに参加しないこともあった。
これは、ある一面でバンドの寿命を縮めたが、メンバー同士の関係は「ふざけてるだけ」で「作品の内容なんかぼくらはどうでもいい」と一貫して主張した。

破壊的なステージはバンドの特色のひとつだった。初期は機材が壊れるまで演奏を続け、流血や骨折することもあった。
演奏力は決して高くはないが独特のグルーヴを持ち、吉井和哉は「テクニック・グループではないけど、バンドとしてカッコイイ」と評している。
そのイメージとは裏腹に歌詞はイノセントなものが多く、各メンバーのキャラクターも含め「少年マンガ的」であるとたびたび指摘された。
純文学、カルト映画やアンダーグラウンドな音楽など、いわゆるサブカル的なモチーフを引用しながら、あくまで健全な表現へと転化させるスタイルは、一時的に多くのフォロワー・バンドを生んだ。

そこのあなた、今夜は伝説の毛皮のマリーズを聴いてみてください、
そして今からマリーズメイニアになりましょう。

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