羽生結弦は男性至上主義ではない

羽生結弦さんの過去の発言を見ると、ジェンダーバイアスは持っていない方だと思います。

例えばこれ。
2015年8月、羽生結弦さんが二十歳の時です。

司会者が女性に向けて、「女性なら、当然、甘いものが好きですよね?」と。
女性陣、ドン引きしてるじゃないですか。
これに羽生さんは助け舟を出して、やんわりと反論するんですね。
「女性じゃなくても好きな人がここにいますよ」と。

ジェンダーバイアスに少し反感を持っていることも窺えます。
それにも関わらず、次は女性司会者から、これまたとんでもない質問がとびます。

司会者「女性と男性で対応を変えていることがあったら教えてください」
羽生くん「いや...変えちゃ...ダメでしょ」

男と女は肉体構造が違うので同じことができない以上、対応を変えねばならないことがあるのは当たり前です。アスリートの羽生選手は一般人よりも男女の身体の違いを実感していたことでしょう。だから対応を変えるべきことがあるのは分かっている。

ただ、この時の「(対応を)変えちゃダメでしょ」の反論は、質問に対する答えという文脈だけではありません。
前の質問から引き続いてジェンダーバイアスに凝り固まった司会者ら大人に対して、自分は迎合しないぞという態度を明らかにしたんですね。

そうやって、やんわりと誰も傷つけないように、しかしちゃんと芯を通すのがかっこいい。
もし私が二十歳の時に、テレビで見るような美女3人と一緒に壇上に立たされて大切なスポンサー企業のプロモーションをやらされたら、周囲の大人の欲しい答えをとりあえず答えてしまうかもしれません。


羽生結弦さんは「男は男らしく、女は女らしく」みたいなマッチョ思考からは遠い人物と思います。

それは羽生結弦さんの選手時代の演技や衣装を見ても一目瞭然です。
プログラムの世界観を演出するために女性的な衣装の力も借りるという姿勢は、非常にプロフェッショナルだと感じます。
演技も男性的な中に女性的な動きを織り交ぜて、「性別・羽生結弦」とまで言われるようなジェンダーレスな個性を作り上げました。

そのため「男は男らしく」というマッチョ至上主義に凝り固まったアメリカジャッジの一部から毛嫌いされていたのではないかと思います。
アメリカは州にもよりますが、「男は男らしくあらねばならない」という同調圧力が日本よりも強い傾向がありますから。

以上の少ない例でも明らかなように、羽生結弦さんは、旧態依然とした男性至上主義からは遠いところにいる人だと分かります。


『入籍』という単語を使ったというその一点のみをもって『旧態依然としたザ・日本の男の典型』だとするのは、あまりに乱暴な決めつけです。
「入籍する」という表現での結婚報告は普通に行われてきました。
X(旧ツイッター)でも、検索すれば、アスリートからの「入籍報告」がいくつもヒットします。
なぜ「結婚」という単語を避けたのか。
おそらく「結婚」には「結婚式」「結婚パーティー」といったイメージが伴うため、いつどこで結婚式をやるのかやったのかという話題になるでしょう。それを避けるための「入籍」だったのでしょう。
狙い通り、「式はどこで行われるのか/行われたのか」「誰が招待されたのか」といった憶測記事は皆無でした。

そもそも羽生結弦さんの報告は「、羽生結弦は入籍する」だったはずです。
男性が「私は入籍する」と言ったならば、主語は私。籍を入れるのはその男性本人です。

ところが、これを「オレの籍に嫁が入る」という意味だと曲解し、羽生結弦を男性至上主義の象徴として批判の的にしようとしたコラムがAERAに掲載されました。
小学校レベルの読解もできないとは、コラムニストにあるまじき日本語力と言わざるを得ません。



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