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デンマーク人がくれた幸せのかたち

デンマークでの2年間の生活を終え、日本に帰国した。
ざっくり振り返ると、1年目は学校に通い、2年目はデンマーク社会に出た。
そもそも、デンマークに向かったのは、”幸福度の高いと言われている彼らの日常生活の中から生まれるデザインとは”の問いに対しての答えを体感しに行くこと。その中で自分が物作りに携わるヒントを探すこと。そして、言い方は悪いが、”その中にある問題”は何かを自分で見に行くことが大きな目的だった。
結果として、この2年間を選択できたことを本当に嬉しく思う。特にロックダウン真っ只中に滑り込んだことも、より彼らの生活への向き合い方を見るために非常に貴重な時間だった。

今では多くの人がデンマークを始め、北欧諸国が幸福度の高い国として話題に上がるのを目にしていると思う。”なぜデンマークは幸福度が高いのか”などの記事は今や至る所で見える。高い税金の代わりに、できる限り全員に等しく教育、医療を無料で提供する、週37時間労働、hyyge(ヒュッゲ)、高い選挙率、育休制度等、色んなキーワードが出てくる。当然一つの要素で彼らがそう呼ばれている訳ではなく、様々な政策や取り組みの繋がり、歴史の上で、今の彼らが成り立っている。
決してデンマークの全てがいいと言えるものでもない、かつ、友人に恵まれたことを忘れてはいけないが、それでも今の日本が学ぶべきことはあると思う。
特に、友人、その友人、家族、インターンのお師匠、全員に共通して
視えた、”人と直接、時間を共有することが何よりも幸せである”ということを胸を張って、そして人生の何よりも大切な時間として中心に据えていること。

コロナ禍で多くの国と人々が、身体的に繋がれない状態を少しでも補完するために”オンライン”での繋がり方を模索したり、慣れないマスクをしたり、デンマークもその一つであったことは間違いない。
ただ、彼らの中に力強くあったのは、”人と直接、時間を共有することが何よりも幸せである”。そう、彼等はコロナ禍になってからも迷うことなく、その時間に戻ることに全力で突き進んでいた。なぜなら彼等はその状態が自分にとって人として幸せな状態と認識をしているから。
人とハグをし、目を見て、顔を視て、肩を寄せ、同じ時間を過ごすことが生きる上で最も大切な時間である。これができないことはつまり人として生きていないと同じくらいの重さであるくらいさえ思えた。
正直、日本人の僕は日本的な空気と比べざるを得なかった。私たちは状況に応じ、仕方がないと目をつむり、どう幸せな時間をとり戻すかではなく、どうコロナ禍に順応していくことを必死に探してるように見えた。そして、それが、今でも続くマスクなのではないのだろうか。
自分も含めて、人間として生きる上で幸せなことは何かを考えることに鈍感になっている感覚がした。
そしてそれは、長時間労働や日本独自のお一人様サービスなどにも繋がってる様に思えた。
何のために仕事をし、娯楽があるのか。
そもそも、胸を張って自分が幸せだと言える状態すら自分でわからない人も多いのかもしれない。
未だに多くの人がマスクをしているのもそうではないか。
マスクをせず、顔を見て話すことの方が幸せなはずなのに、外を歩いていても、公園にいても、多くの人がマスクをしている。
さらにはスマートフォンを覗き、顔からその人を視ることはできない。ましてや、すれ違う人とはほとんど目が合うこともない。同じ世界を生きているはずなのに、少し悲しく寂しい気持ちになる。
(デンマークでも全くその状況がない訳ではないが、すれ違い側に目があい、軽く微笑むことはよくある。)

話は日本へと逸れたが、デンマークに来た当初、友人たちが私に”なぜデンマークに?”と質問してくれる度に、”幸福度の高いと有名な話が本当か嘘か見にきた😏”というと、みんな少し半笑いで、”あぁ、それね。システムとしては恵まれているけど、個人の幸福度が高いのかはわからない😅”と多くの友人に言われた。実際に、彼等と過ごし、将来やりたいことがまだわからない人や家族からの学業へのプレッシャーが嫌だとか、若い世代で孤独を感じ精神的に病になる人も少なくないなど、割と日本人でも抱くような同様の悩みを聞き、彼等の”システムによる幸福度”があながち間違っていないような気がしていた。
しかし、時間を経て、システムを作る人を選ぶ人たちである彼等が、何度も話してくれたのが、”人と直接、時間を共有することが何よりも幸せである”。ことを人生の核にしていることだった。
そして、少しずつ理解する。この想いを強く根底に持つ人間が多くいる中で、社会や仕事、法が決まっていくのだから、それは自分やその周りを大切にしていく環境ができていきやすいのは当然だなと思うようになった。(当然全ての政策や活動が前向きなものではない。)
つまり、圧倒的な価値観がシステムに繋がっていることに、特に2年目、彼等やその友人、家族と一緒に過ごす時間が増えた中で見えてきた。
自分の気持ちをとことん話したり、自分の国についてのことで意見をぶつけたり、お酒を飲み、踊り、たくさん一緒にご飯を作り、同じ布団で寝泊まりをし、海で裸で泳ぎ、本当に色んな時間を共にした。
まだまだ英語を勉強中の私でも、言葉ではない部分で深く繋がれたのは、身体的な時間を多く過ごせたことに他ならない。

多くの時間を過ごした友人達

加えて、国や街の規模が小さいこともあるが、日本で言う、小学校、中学校、高校、大学、大学院それぞれのカテゴリーの友人達が、友人として繋がり、同じ時間を過ごすことも頻繁にある。
つまり、何が言いたいかと言うと、自分が生きる社会にいる人達をとても近くに感じることができる。
これは、自分が社会の中で生きていく上で、信頼と安心感を得るにはとても重要なのではないだろうか。
それは、選挙率が高い要因にもなっているように見えた。隣に生きている友人、家族の為に国や社会があり、自分がそれを作る”一票”を持っていることは選挙に行く大きな要因だと思う。
(選挙の期間は、友人達との会話もその話になるし、みんな投票に行くという社会の空気もあるが、その前提はここにもあるのではないだろうか。)

とはいえ、自分自身も今までの関わった人達との繋がりを本当に大切にできていたかを問い直せば、答えはNOだろう。デンマークとの比較を言い訳にすれば、街や県をまたぐ物理的な距離もある。
ただ、全くゼロではないことは幸いだ。
そして、その繋がりを少し補えるツールを今私達は持っている。使い方を考え、そうした彼等との繋がり直しを試みたい。
今では少し変わったかもしれないが、あの時代のあの時の私を知っている貴重な人達で、それは今から築くことはできないので。

まずは、久々の友人に連絡をとろう。
自分の友人に会いに行こう。
自分の友人を友人に会わせてみよう。
親に友人を会わせてみよう。

日本社会は決していい状況ではなく、内閣官房の調査でも、特に自分の世代は孤独を感じている人が多いらしい。
自分の周りの人くらい、自分が関わる時間で一緒に入れて幸せだなと思ってもらえるような人間でいたい。
その輪を繋げていきたい。

デンマークでの2年間はこれからの自分にどう染み込んでいくか楽しみだな。

ただいま、日本。
ありがとう、デンマーク。

ヨスケ



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