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仕事を辞めると会社に伝えた日

今年の3月に決断をした。今の仕事を退職する、ということ。
この電気工事会社を離れる、ということ。

9月の締め日で退職するために
ギリギリの8月半ばになってようやく会社へ伝えることができました。

これからの人の動きを担う方にだけは3月に静かに伝えていたんですけど

他の人に言えない理由が僕の中にあって
それは僕にとってみんなと共に頑張ってきたからこそ
まだ言葉にするべきではない。と決めていたので
態度にすら出さず過ごせてきたと思います。

勤めている会社は
大きくなるかな?って従業員も増えた時期もあったんですけど
だいたいは10人そこらで長く働いて来た人ばかりで
それぞれが個性を発揮することで
たくさんの現場を作りあげてきました。
不満というか素晴らしくも大変なことは
その人がその人であること。
僕を生きてきた僕の中にだけ発生する隙間と淵を描くような承認欲求。

それを不満と呼ぶなら使ってきたニュアンスと不満って言葉は違うやないかと脱線してみたりです。

共感のような発言を
内側、外側に向かって震わせてみたり
そこには響いていないことを実感したり。

極端に言えばコミュニケーションっていう言動は存在しないんじゃないかな。って思うこともあります。

それは僕は僕でしかなくて、僕じゃ僕がわからないからです。

まず
会長の奥さんに退職を決めた話を伝えに行ったんですけど
うまく口には出せないと思ってたので部屋に行って
ストレートに言いました。

そこからソファーで向かい合ってしばらく話をしたんですけど
間を作ることなく、匂いも気配もなく本当にいきなり伝えたので
僕も言葉は用意せずにお話しました。

ショックだけどやりたいことがあるのなら、送り出すしかない。
と紡ぎ出してくれたこと。
に続いて

奥さんにしかわからない日々の思いから、悔しさを滲ませる話。

職人。という社会的立場に
どれほど息苦しく感じているか。
どうして、手に職。というこの業界が大変な思いをしているのか。

たぶん、みんな頑張ってくれてるのに
いつも大変なのは
世の中がよくならないからだ。

と捉えてらっしゃって
そう思っているならその息苦しさもそうなんだろう。と受け止めていたんですけど、、

僕の映す不安。心配。は全然違うところにあって
それは置いていく必要もないのでいいんですけど
この社内の人の不安の映り変わり。
に世の中を思うところはあります。

各々、ちゃんと自分の幸せを見出して生きてるので大丈夫ですよ。
的なことを言いたくなったんですけど、それも違うなぁと思ってやめました。

本当にめちゃくちゃをしてきたので
辞めるということがショックだ。と言ってくれたには驚いたんですけど
振り返れば僕は本当に、僕の都合で仕事を離れるんだな。と思いました。


あと一か月。一生懸命頑張ります。と意気込みを伝えるくらいしかわからなくて。

あとはずっと変わり続けてる仕事の探求を大いに楽しめばいいんじゃないかと思っています。

輪郭を帯びてきた、僕の好き。
が視座を変えるたびにずっとずっといろん気づきがでてくる
その視座にいる僕。そこを視座だと感じた僕。

これからは、こうだ!と決めないことが主体に
テーマのような物を持っていくような雰囲気で感じてることを
○○○だ!と呼ばないようなことをしていく、ような気がするようなしないような。


これから恩返し!ってよりも
退職する。と決めた日からずっと語ることなく伝えることなく
会社にまつわる物をひとつひとつ、彼らを思って大切に手入れをしてきました。

まるでそれまでを否定してるような話になりそうなんですけど
それまでがあったからの前提で進めていたとしても

ずっとしてこなきゃいけなかったんだなぁ。って手入れをしてから思いました。

みんなに手入れを求める心が生まれます。


機嫌の悪い日は手入れせなあかんくなるから、触るな!って思ってしまってたり
じゃあ手入れなどしなければ良かったのでは?
などなど思考のゲームが続いていくんですけど

約半年。僕として、心をこめて会社の中にあるほとんどの物を手に取ったと思います。勝手な話なんですけどね。

大切に扱うって僕にとってはどうゆうことなんだろう。って育むことを特に楽しめた期間だと思います。

日本中が、
安全に生きる。
安全に仕事をする。
より良く生活する。
ということを共有どころか押し付け合うようになる始末で。
567騒動よりもっと前から、コンピューターみたいなことを
結果のための対処を導き出す行動を。

ルールさえ守っていれば、結果は悪くならない。
と何を言ってんのかよくわからないルールができたり
安全って健康ってなんやねん。とか

影響って言葉すらだいぶ怪しいんじゃないかと思ってみたり。

それ!をできない人間は、まるで人間ではないかのように
何のかわからない何かに準じて人は常識だと語る。
どころか謎の確信をもっている人すらいる。

職人は、特にそこじゃないだろ。って思うんですけど、、

せっかく人間なのに、わざわざコンピューターみたいになろうとせんでも、、って極端に言えばそう思います。


技術、施工は完成品からも
もちろんですけど
現場の道具の転がり方
作業の止め方
道具箱の中身
材料の減り方
車の止めてる場所

もっと言えば、現場に出てない物の散らかり方から
誰のもの、誰の仕事。

誰がめんどくさがった
なんでめんどくさがった。

この道具が好きなんだろう。

そのドアが開いてること
その机にどのボルトがどれだけ転がってるか
からその人と考え方の傾向、偏りというか
その人らしさが見えてくる。

もっと言えば誰が何もしなかったかも見えてくる。

その人を宿すところに心が動く。
でもそれは僕から見たものだけでしかやくて

それは、ただこの会社で僕が生きてきたんだ。と実感を得るだけの話なのかもしれないです。

ボルトはボルトらしい形をしている。

人間は人間らしくって
何を行うことが行っていること
行わせていること、行わさせられていること
何を人間の実感だと見えるんだろう。

人間ってなんだろう?
猫みたいだと人間らしくないんでしょうか?

電気工事を施工する中で

数字は絶対だ。という根拠で技術を感覚を語ることがよくわからなかった。


スケールを当てて、1000ミリメートルで印をして切るんだ。
と言われても、1000ミリメートルの目盛を見てここだ!と鉛筆で添わせた印を何度見ても
これは1000ミリメートルだ。

と腑に落ちることがなかった。
それを1000ミリメートルって言葉が出てこない日は
1メートル
と言えばなんとなくまぁ、いけるかなぁと思ったことを振り返る。

わかってなければ、ならない。って思っていたから
数字を測る、拾うことがずっと苦手だった。
何度見てもそれを1000ミリメートルと呼ぶことに抵抗があった。

作ること、取り組むこと
仕事をやめると決めてからは、考えを導き出すこと
それを形にしていくことが楽しくなってきた。
それは形だと断定しなくなっていったからだと思う。
そこからが楽しくも大変になってきたんですけど
それは改めて、また違う話でできればいいかなと思います。

会社を辞めるということを、ようやく伝えることができました。

意味不明かもしれませんがここまで読んでいただき ありがとうございます。


長すぎる、完全に僕のみの主観の話なので長いけど、よくわからんねん!って思い出したらいつか直接言ってください!

これでも超省略してるので、僕は口が下手でクドい人なんだということがよくわかります!
最後まで読んだ人、凄いな。って思います。

さて、何回【思います】って言ったでしょう!ですよね!



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