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前略 いつもお世話になっております。以前より療養中である〇〇〇〇先生の状態が芳しくなく、お嬢様に加療中の医療機関担当医師より、長くはないため、親しい方への連絡を、という事でした。取り急ぎ、〇〇〇〇先生のご様子をご報告申し上げます。草々 △△△△

誰にもたくさんの師がいて、それぞれに自分の成長などに少なからず影響を与えていると思います。言わば、会う人、事象すべてが自分の生の礎を築いてきたといってもよいでしょう。
その中でも、私は3人の師が特に印象深く、決定的な影響を受けてきました。人生の方向付けを決められた方々であるといえます。
そのうちの二人は既に他界され、もっと沢山教えを乞うておっけばよかったと後悔していますが、今、最後の師である方が、死線をさまよっていらっしゃいます。
大学の学生課掲示板に張り出された一枚の塾教師募集、週三日で、確か当時月2万円ほどでした。頭の悪い私が、二浪して入った私学。親にずいぶんと迷惑をかけたので、少しでも学費を補助したい一心で、通学途上にあるこの私塾に教師として応募したのです。
最初は、日曜日に山登りの恰好をしてきなさいと言われ、何事かと思いましたが、奥多摩の山を新中一の子供たちと藪漕ぎをしました。
薫風薫奥多摩の新緑と、山に響き渡る子供たちの歓声が今でも耳に残ります。山から下りてくると、今度は沢遊びです。今から考えれば、よくけがをせずに済んだものだと思うのですが、何とかこの初日を乗り切ったのです。それからは、この塾の没入し、4年間をささげたのでした。
そこの責任者が〇〇〇〇先生でした。
〇〇先生は陸軍士官学校の出で、終戦当時は江田島にある陸軍の特攻兵器人間魚雷「回天」の乗組員として、日々訓練に励む毎日で、8月6日には、目の前で原爆の投下を目の当たりにして、戦争の惨さを体験されていらっしゃいます。100人で訓練を受けていたその部隊は、特攻やその訓練中に、ほとんどが亡くなられ、2人しか残らなかったとのこと。
それらの体験から、東京都下の町で、革命を起こそうと、塾を始めたと聞いたことがあります。

この項、続く

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