流れがわかる日本史③

②の続きです。大和政権について書きたいと思います。もともとは畿内の豪族連合、つまり畿内の強い奴らの連合体だった。彼らは、横のつながりを持ち、各々強くなるために、共同で朝鮮に渡り鉄資源を獲得しようとしました。しかし、前回話したように、朝鮮北部の統一国家高句麗に敗れたのです。日本に戻った彼らは、気付きました。組織的な体制を作らないといけない!そこで、王の中で一番リーダー格だった王が大王としてまとめ役となり、それ以外の王は地名や職掌に基づき姓が与えられます。いわゆる氏姓制度が整っていきます。そして大王を中心に、各豪族の代表者が最高会議に参加し、大和政権の方向性を決めるということが 慣例的に定着していくのです。

そして、支配領域を広げる大和政権にとって、最後の強敵は出雲政権でした。彼らは何より、鉄を持っている。油断すると負けてしまう可能性があります。周りの豪族たちを従え、数や力で圧倒し、ついに出雲政権は大和政権に降伏します。この時、出雲の代表が降伏する条件として出したのが、出雲大社の建立でした。大和政権がこれを認めたことで、日本一のしめ縄を誇るこの神社が作られました。ちなみにこの時代の神社として有名なのは、伊勢神宮、大神神社、宗像大社などがあります。

400年代の後半には、この大和政権は関東から九州までを支配領域としていたことが分かっています。なぜなら、この時代に埼玉県や熊本県の地方豪族が、ワカタケル大王(雄略天皇)に仕えていた事を示す史料が残っています。そして500年代に入ると、さらに支配領域を広げる一方で、大和政権内での政権争いが熾烈となっていきます。誰もが、手の届くところに権力という魔物がいれば、手を伸ばしてみたくなってしまうようです。その中で、大伴氏、物部氏、蘇我氏、中臣氏などが有力候補としていたようです。まず最初に権力を握ったのは、大伴氏でした。大伴金村という男は、武烈天皇で途絶えた皇統を応神天皇の流れから、継体天皇の擁立に成功し、キングメーカーとして権力を握りますが、朝鮮政策に失敗し失脚します。その後、政権争いは蘇我氏と物部氏の対決となります。そして、この争いに勝利したのが蘇我氏でした。

蘇我氏が力を持った理由は、①渡来人との結びつきがあったこと。これは最新式の武器や情報を手にし、他を圧倒することができます。また②大和政権内で財政を担当しており、金を動かすことが出来た。そして、③仏教受容派であり、多くの氏族の支持を得られたことが大きいと考えられます。今でこそ、蘇我氏は専制的で支持はなかったと思いがちですが、いわゆる馬子の時代までは、蘇我氏は他の氏族と協調的であり、仏教を受容することで、古墳の造営に疲れていた氏族は寺院の建立により、権威を象徴したり、先祖を供養することが可能と知るのです。そして、仏教受容派の蘇我氏を支持したことで、蘇我馬子は絶大な権力を手に入れ、推古天皇と摂政聖徳太子との三位一体の改革を進めていくことになります。

詳しくは、私の人物史「聖徳太子」編をご覧下さい!この時代に目指したものはずばり、官僚制国家への移行でした。それまでの氏族が世襲的に最高会議に参加していくものでしたが、これからは試験に合格し、キャリアを重ねたものが太政官のメンバーとなり世襲ではなく、実力と実績で国政を担う、官僚制国家が目指されましたが、氏族は特権を失いたくないものです。ですので、彼らは貴族と呼ばれ、特権階級として様々な既得権益を持ち、官僚制を阻害しました。

それでも、時代に対応する能力は、実務能力であったり、現実に対応できる力が必要なわけで、次第に官僚制が定着していき、奈良時代へと向かっていくのです。その過程で重要であったのが天皇権力の強大化です。官僚制を進めるには、氏族の特権を奪っていくことになります。それをするには、一つの強いリーダーシップをもった有力者が協力に推し進めていく必要があります。そのために、聖徳太子の時代以降、天皇権力の強大化が一つのテーマとなっていきます。天智天皇や天武天皇の時代です。詳しくは④で説明していくことにしましょう。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。