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表現者

「表現する人」に漠然とした憧れがあります。(最近憧れについて書いていることが多いような気がします)
最近ハマっている藤井風さんもそうですし、結構前から好きな水溜りボンドのカンタくん、書くことについて精力的に活動していらっしゃる山田ズーニーさん、新渡戸稲造、荘子などなど

心を打つ表現、というものがあったとして、それは「表現したいものそのものの量や質」と「表現する力」との掛け算のようなイメージがあります。
風さんなら(手放すこと・ハイヤーセルフの声を聴くこと)×(作曲・演奏力)
カンタくんなら(おもしろを追求したい気持ち)×(企画・編集能力)
ズーニーさんなら(「あなたには書く力がある」ことを伝えたい)×(出版社での経験や文章を書く力)
というような。

いま、時間があって音楽理論の勉強をしたり、ピアノの練習をしたりしています。そしてnoteも気づけば50日以上毎日更新してはいるわけなんですけど、それって「表現する力」を淡々と伸ばしているのに過ぎないなぁと、思うのです。いや、伸びてすらないのかもと思えたりもします。それはおそらく僕の中に「表現したいもの」そのものが無い(または限りなく薄い)からなんじゃないかなぁと思う最近でございます。

音楽か映像か文章か、というのは大きく見ると表層の話でしかないわけで、根元の想いみたいなものがたまたまそういう形で現れただけなんじゃないかなって、

僕は音楽、というかピアノとか歌ありきでそういったことの真似事をしているだけなんじゃないかなぁと、大っぴらにする話ではないんですが、書いてみる方が整理されますし記憶に残るのでいいかなと思いました。

では、よい三連休を。

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