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死のうと思っていた。だから書いている。

なんで書くのかなんてことは、書くことしか残されていない人間に聞くのは酷ってものでしょうがよと思うんですが。みなさん意外と書く以外にも自己表現の選択肢があって、その中であえて「書くこと」を選んでいるんでしょうか。そうなの? 例えば絵も描けるとか。 
いますよね絵も描けて文章もうまい人。天は二物を与えずって嘘なんじゃねと思わずにはいられない。

翻って私ですよ。私には書くことしかないんです。
絵もへたくそ歌もさして上手じゃない、演技も素人、踊りやその他体を動かすなにもかもは致命的、音楽だって趣味程度。私だってエッセイ漫画とか描いてSNSにアップしたいですよ。でもまず絵が見るに堪えないほどに下手。練習したらある程度までは上手になれると聞いたって、その練習自体が底抜けに苦しい、しんどい、やりたくない。ああこれは、才能がないんだな、と、ある日すとんと腑に落ちました。
絵心がないとか、それ以前の問題。
私には、絵のために努力する才能が決定的に欠けている。

なんであれ、書くことであってさえそうだと思うんですけど、上手い下手って実はあんまり関係ないんじゃないでしょうかね。そのために努力できるかどうか、今の場所から一歩でも前に進むために、工夫を重ねることができるのかどうか。そもそも、努力や工夫を苦労と思うのか、思わないのか。それがつまり「向いてる」ってことで、きっとすなわち「才能」と呼ばれるものなんじゃないでしょうか。知らんけど。

私の中でとぐろを巻いている種々雑多な思考の奔流。絵描きであればなにがしかの形でキャンバスに描き出し、音楽を選んでいたならきっと五線譜の上で躍らせた、私の身のうちに巣食う黒々とした「なにか」。そいつに私は、言葉でもって形を、輪郭を与えることを選んだので。選んでしまったので。描くことでも奏でることでもなく、書くことで世に出す道を選んでしまったので。なら、もう仕方がないじゃないですか。
他の方法は望めない。頑張ればそいつの息の根を止めることもできるんでしょうけれど、それは私自身が息絶えるのと同じです。あるいは何も考えず、何も選ばず、感情のままに身のうちの「なにか」を周囲へとぶつけることもできるでしょう。実際そうしてきた時期もありました。その結果、周囲をいたずらに傷つけるだけ傷つけて、私はもう死にたいなと、消えてなくなってしまいたいな、と思うようになったのです。
 ここでタイトル回収。ちなみに、タイトル読んで「太宰治じゃん」と思った貴方は私と感性が似ています。嬉しくない? まあそういわずに。

 私の身のうちに巣食うそいつは、殺そうが、好き勝手暴れさせようがきっと私の身を滅ぼしてしまう。ならば渡り合うしかないんでしょう、そのための手段が、私にとっては書くことなんです。
 ところでなにか、とかそいつ、とかずいぶん抽象的じゃないかって? 私もまだはっきりと言語化できているわけじゃあないもので、悪しからず。けれどきっと、大虎の姿をしているんじゃないかな。あの有名な才人の、成れの果てみたいに。

私の感覚は別に特異でもなんでもなくて、きっと誰もが腹の中に「なにか」が巣食っているのだと思います。だからペンを取る、キーボードを叩く。それしか方法がないからなのか、数多ある選択肢の中であえて「書くこと」を選んでいるのかは、人それぞれでしょうけれど。
きっと自己表現を必要としない人だって、身のうちに何かが巣食っているんですけどね。表に出さないことに慣れているだけで。飼い殺し、押し殺し、息を殺すことに、慣れきってしまっているだけで。それは社会を生き抜くひとつの方法だから。だってそれが、大人というものだから。

ねえ、あなたの身のうちには、どんなケモノが巣食っていますか

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