アユちゃんのはなし

 先日からちょくちょくTLで「普通」とか「平等」とか「格差」の話を目にする。そういえば東大入学式での上野教授の祝辞のときも同じようなことが話題になっていたね。

 人生って生まれた瞬間からどうしようもなく「違い」があって、ひとりひとりの置かれているその状況はジコセキニンって言葉で安易に断罪できないし、外野がそんなことをする筋合いはない。私がそれをきちんと理解したのは中学生の頃だった。でも、「きちんと」わかる前から「なんとなく」は知っていた。その「なんとなく」の話をちょっとだけ、書こうと思います。誰かに知ってもらいたい、という気持ちよりも備忘の意味が近い。

 今からするのは、アユちゃんの話です。

 アユちゃんと私は、小学校の1年生から4年生までのあいだ同じクラスだった。ともだち、だったと思う。いや、どうだろう。私のいちばんの仲良しは別の子だった。でも、アユちゃんと私は時折一緒に遊んだ。あそ……んだけど、正直なところ、全然楽しくなかった。私はアユちゃんが苦手だったし、もしかしたらキライだったかもしれない。そしてその気持ちはアユちゃんも一緒だっただろう。

 アユちゃんの目当ては私じゃなくって、私の母だった。

 今なら、わかる。アユちゃんは「放置子」と呼ばれる存在に近かったのだ。アユちゃんは三人姉弟の真ん中で、お母さんは、おねえちゃんと弟だけを可愛がっていた。お父さんはいなかった。彼女ら四人家族は学校近くのアパートに住んでいたけれど、そこに来る前は「シセツ」にいたらしい。幼い私には「シセツ」がなんなのかよくわかっていなくて、その言葉を聞くと何故かクリーム色の廊下とスチールっぽい下駄箱を想像した。要は学校みたいなものかと思っていた。多分「シセツ」はDVシェルターみたいな場所だったんじゃないかな、と今は想像できる。アユちゃんは悪いことをするたびにお母さんから「あんただけシセツに戻すよ!」と叱られていた。

 母はアユちゃんに優しかった。というか、私の母は近所の子どもたち皆に優しかった。いや……うーん……優しい、と一言で括るのは難しい。母は子どもたちの為にエレクトーン教室をひらいていて、髪は刈り上げていて、いつも細身のヘンな柄のズボンを履いていて、プレステのゲームが好きで、ほとんど毎日徹夜して楽譜をかいていた。まあ、要はちょっと変わった人だった。変わっていて、世間一般の「お母さん」像からはハミ出た人だったけれど、子どもの相手はすごくうまくて、それは今でも変わっていない(孫と電話してくれて本当にありがとうございますまじで頭があがりません)

 そして何より分け隔てがなかった。だから、アユちゃんにも他の子どもたちと同じように面白おかしく優しく接したし、もしかしたらアユちゃん相手には何割か増しで親切だった。彼女の目からは、アユちゃんの境遇がよく見えていただろうから。

 アユちゃんは私の家によく遊びにきた。何をして遊んだのかはもう覚えていない。覚えているのは二つの場面だけで、ひとつは彼女が家の前の道路を這っていた毛虫を、箒の柄のさきっぽで突き殺した場面。もうひとつは彼女が我が家の棒アイスを全部食べ尽くした場面。「ひとり一本や」って私は何度も言ったけど、アユちゃんは無理矢理全部たべた。ミキちゃんの家はいっぱいくれるもん、と言いながら。

 アユちゃんはいつも顔を洗っていなかったし、よく嘘をついたし、宿題はしてこないし、忘れ物が多かった。だからみんなからあまり好かれていなかった。私だって(さっきも書いたけど)アユちゃんのこと、そんなに好きじゃなかった。でも、母はアユちゃんと仲良くしなさいと言った。私は母には逆らえなかった。

 いちど、私が読んでいた図鑑をアユちゃんが覗き込んできたものだから、「これ読める?」と長い長ーい水草の名前を指さして質問したことがある。その意地悪さと残酷さ! 私はアユちゃんが字をスラスラ読めないことを知っていたのに! たどたどしく「ヘラ……ん…チゥ…」と読み上げるアユちゃん。私はそんな彼女の横で「ヘランチウム・アングスティフォリアベスビウス!」と自信満々に言って、こんなに上手に読めるんやで、自慢した。幼い私は鬱憤が溜まっていたのだ。アユちゃんは私によく意地悪を言ったし、家にくるし母のことを独占するし(私だって母に甘えたかったのだ)。まあだからといって、そんなことはするべきではないと今の私には分かるけれど。

 その日、私は母にとんでもなく叱られた。外に立たされた。私はアユちゃんが、アユちゃんのせいじゃなくって、色々仕方なくってそうなってしまっていること、そういう構造の中にいることが見えていなかったから、とても不服だった。でも、黙ってずっと外に立っていた。

 アユちゃんのおうちに行ったことがある。そのときの衝撃を、私は今でもド鮮やかに覚えている。すごかった。とにかく、すごかった。小学校の頃、私は色んなお家に遊びに行った。平屋のおうち。マンションのおうち。お母さんがいないおうち。団地のおうち。お風呂屋さんのおうち。クリーニング屋さんのおうち。山の上にあるおうち……。綺麗なおうちも散らかってるおうちも色々あったけど、でも、なんかアユちゃんの家は格が違った。アパートの一階にあって、玄関を開けた瞬間、もう物で溢れかえっていた。すごく暗くて、まわり全部がものだった。ゴミ屋敷、とまではいかないかもしれないけど、その一歩手前ではあった。ここでどうやってサイちゃん(姉)とアユちゃんとソウちゃん(弟)とママが暮らしてるんだろう……と私は真剣に不思議だった。いや、今でも不思議だ。そりゃあ、宿題ができるわけもない。

 小学校5年生になってクラスが分かれると、アユちゃんと私の付き合いは殆どなくなった。でも、母は参観日とかで会ったりするときに、アユちゃんと喋っていた。その頃アユちゃんはもうお化粧をはじめていて、母はそれを褒めちぎった。アユちゃんは、私のママがちーちゃんのママだったらよかったのに、とよく言っていたらしい。それはとても寂しい言葉で、11歳のアユちゃんのその気持ちを想像すると私の胸はキュウとなる。

 アユちゃんがとんでもない環境下にいるということを、私は肌で知っていた。もしかしたら、他の子も。クラスにいる子たちそれぞれ、いろんな家庭から来ていてでこぼこしていたけれど、アユちゃんのおうちはなんか本当に別格だった。努力、とか自己責任、とかそういう言葉を聞くと、私はやっぱりアユちゃんのことがよぎってしまう。あの、もので床が二重くらいに見えなくなってるおうちのこととか。

 これは最近聞いた話だけれど、母はアユちゃんのママとも仲が良かったらしい。アユちゃんママが言うには、アユは離婚したパパに似てるからどうしても顔を見ていたら腹が立つ、のだって。そういう理由で、アユちゃんをほったらかしにしていたらしい。それって、どうなん? という感じではあるが、それに関してうちの母は特になんとも思っていないというか「まあ親も人間やししゃーないよな~」みたいな態度で一貫していたようだ。アユちゃんを不憫だと思うことと、アユちゃんのママと仲良くすることは、彼女の中では矛盾せず成立したらしい。私だったらなんかそれ、できない。

 アユちゃんは今どうしているのだろう。

 5年ほど前、母のもとにアユちゃんの姉のサイちゃんがきた。幼稚園教諭になるためのピアノを習いにきたのだ。そのとき、母はアユちゃんの消息を訊いてみたらしいが、知らん、ということだった。なんかアユちゃんのことは、アユちゃんの家庭ではあまり話さないし、居なかったみたいに扱っているらしい。

 そしてちょっと前。母は病院でアユちゃんを見たらしい。

 でも、声をかけられなかった。

 アユちゃんはとてもしんどそうで、疲れ切っていて、元気がなくて、みすぼらしかったそうだ(まあ病院だから当然かもしれないけれど)母も私も、アユちゃんはきっとなんかたくましく元気でやっていると信じていたのに、それがガラっと崩れてしまって、母は数日落ち込んでいた。私もなんだかどうしようもなく、悲しい。その病院はちょっと特殊な病院で、難病の人が多いところだから、余計に。

 「色んな境遇」という言葉の「色んな」のところを想像するときに、私はアユちゃんのことを思い出す。そして、きっとアユちゃんみたいな子はアユちゃんだけじゃないんだろうな、とも。私が宿題を忘れなかったのは床が見える家に住んでいたからで、そしてどんな家に生まれてくるかを子どもは選べない。努力って言葉は口触りも耳障りもいいけれど、そこにはちょっとした乱暴さがひそんでる。

 運動会の帰り道。アユちゃんは自分の家じゃなくって私の家に遊びにきた。私の母と手をつないで、アユちゃんは私の家に帰ってきた。多分もう一生わたしはアユちゃんに会うことはないし、彼女は私のことなんかもう忘れてるかもしれないけど、でも、私は忘れない。そしてすごく無責任に、彼女が元気であることを祈っている。