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丙/孤独/真の表現者

孤独になる要素は色々あります。
しかし、日干だけで見ると、日干が丙の方なんです。

真の孤独を感じるのは、
私の場合は丙の方です。
同じ火の丁の方は丙の方よりは孤独性を感じません。

大人になるにつれて、
人は孤独になっていくのが普通なのですけど、
その際に丙は他人の影響を一番受けにくい、受けられない要素がとっても強いんです。

それは強いと訳されるのかもしれません。
しかしその強さは、丙の場合、違ってくるんです。
人間界に生まれて人間をする際に、火は表現性なんです。
それが自分自身ということは、例えばこうして記事を書く、ということだけでなく、歩く、呼吸する、というなんでもないことでさえ、丙の方にとってはそれを自分は表現しているという認識ができず、そのすべてを自分の中に取り込んでしまうんです。

表現という領域と、自分(自我)の部分の境界線が良くも悪くもない、つくれないのが日干丙なんです。日干が火であることが重要で、仮に日干が他のもので火が強い、という場合は今回の場合は当てはまりません。日干という自分が火であることが重要で、それがたとえ冬で身弱でもこの孤独性はついてまわります。

ですから、歩く、呼吸する、何かを飲む、ということでさえ表現になってしまうということは、真の表現者、ということです。
丙さんと話しても、どこか聞いてくれてない感じを感じることがこれまで多くありました。
それは、聞いてない、他人に興味がない、というレベルのことでなく、相手の言葉を聴いているようで、丙さんの頭ではその聞く、ということさえも自分のなかに取り込んで、聞くという表現をしているという表現意識が自分と乖離していないために、相手を自分のなかに取り込んでしまうからなんだ、とわかりました。

自己完結方の方が多いのは丙の方ですが、なぜそうなっているのか、ということを考えると、そこに他人の意見は聞かないという自我はないことがわかります。聞こうにしても、自分が聴くことをしているという表現者という認識を持てないから、そうなっていることが本当に多いです。何もしなくても自分のすべてが表現になっていることを自分で認識することは占いを知ってない場合は困難です。

人間界では、人間は何らかの表現をしながら生きていくことになります。
歩くこと、とにかく人間は動く生き物で自分のエネルギーを外に流しながら生きていくことになる生き物です。ですから、それらすべてを表現として考えると、その表現が自分の中に既にある、ということは表現ということについてそこに自分の所在を持てないというのは、この世に自分だけしかいないような錯覚をもちやすいということでもあります。

日干が火でも陽干の場合はそれがより強調されます。
陽干の場合は、陰干が1m先を見ながら生きているところを10m先を見ながらいきているようなものだからです。
10m先にたどり着いて、初めて一呼吸できます。その道中で起きることは自分でそのことを認識して意識しておかないと注目できにくい性質があります。フーッと一息つくその間隔が陽干の場合、大きいですから、自分の言動であり表現について、それを振り返らない時間が長くなるとなると、ますます孤独性も高まる要因の一つになってきます。

太陽だから影響を受けない、という理論であれば、雨(雪)と良く表現される癸の方も孤独性が高いとなるのですが、もし、私たち人間界がただ思考の部分だけで生きることを余儀なくされる生き物であれば、一番の孤独性は癸の方と解釈できます。しかし、人間はそうではなく、表現という火性を強制されているところがポイントになります。
それが自分と区別されてない、ということはどこを見ても自分一人だけが存在している、という認識になってきて、それは孤独性になって表れやすいのが丙の方です。