受容・寛容・排除

セクシュアル・マイノリティに関する論文を読んでゼミで議論したときに思ったことなんだけど、思考整理がてら言語化できれば。

「多様性は認めなければならない」

という命題は一見正しそうだし、「多様性を認めてはいけない」という命題は間違いだってなることはそうなんだけど、「認める」ってなんだろうっていう。

例えばセクシュアル・マイノリティに絡めるのであれば、同性愛者を見て嫌悪感を覚えるのも多様性の一つの要素なわけで。それは「だめ」とは言えないでしょう。

一つ今回のタイトルにした「受容・寛容・排除」に着目すると、
・「受容」は受け入れること。同性愛も一つの愛の形だ。同性愛を自分の前で表現してもらって構わないよ。
・「寛容」は許すこと。同性愛には嫌悪感があるけど、別に同性愛という概念はわかるけど目の前ではやめてほしいし、表現が多い人からは距離を置く。
・「排除」は許さないこと。同性愛は嫌いだし、同棲愛者はこの世の中から消えてほしい。

「認める」っていうのはどのラインまでなんだろうか。やっぱ「寛容」じゃないかと思うんだ。

大人であれば別に世の中で生きていく上で寛容であろうと思えばそれでいいんだけど、では教育ではどのように語っていけばいいんだろうか。

子どもに多様性を大事にしましょうね。多様性は認めていきましょうねっていう話をする際には、「受容」を打ち出していかなければならない傾向にあるような気がする。

それは、授業が表現によってのみ成り立つから。「同性愛のことは嫌悪感がある」と思うことは多様性の範疇でも「同性愛のことは嫌悪感がある」と発言することは「排除」に片足突っ込むことになる。

でも「同性愛も多様性だ。認めていこう。」っていう発言はいいんだよね。厳密には「認めていこう=受容していこう」という文脈であれば「嫌悪感」を「排除」することになると思うんだが。そうすると発言には細心の注意が必要であるってことに着地しちゃうんだけど、「寛容」を授業で育てることは可能なのか不可能なのかっていうのは難しいと思う。

コンピテンシーベースの評価では「思考力・判断力・表現力」って言われているけども、それぞれの力の間にも差がある。結局評価するためには表現させなければいけないし、でも表現することは「寛容」であることを許してくれない。

そもそも学校教育で内面に関する教育をやっていいのかという根源的な命題に至るのも忘れてはいけない。本来価値判断は教師から注入されるものではない。つまり多様性を認めるかどうかは家庭教育、ないしは学校における児童生徒自身の判断に委ねられている。

「多様性は認めなければいけない」という命題も、実は奥が深い。(最後はテキトーなことを言って何かしら結論を出したかのように演出しているが結局論点を提示しただけで何も言ってないよねってお気づきの方は何か意見を教えていただければ。)


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