元若排リアコ、現

長い上にポエムです。

元推しを降りて二年が経った。
苦しい二年だった。

リアコは本来いるべきでは無い存在だ。
推しは神であり、運命共同体なだけで、恋愛対象では無い。
推しと好きあいたい、この言葉自体、主語と動詞が共存できるものでは無い。

でも、大好きだった。

大好きだし、愛していたし、憎かった。
もっと元推しを見ていたかったし、元推しを好きだと感じていたかった。
もっと、純粋に、好きだと声を大にして言いたかった。

降りてからもふと思い出して元気があれば元推しのSNSをチラ見して、好きが廃れていない現実に心が摩耗した。
自傷行為にも程がある。

それでも二年、思い出す機会を減らせるよう努力し、その努力は実を結んでくれた様で、思い出す回数は減って行った。
元同担への嫌悪が薄れていくのを感じ、同時に元推しへの愛も薄れていかないかなと願った。

事実、愛が薄れる事は無くとも、憎悪は小さくなって行った。それ程元推しに割く感情が亡くなって行ったとも言う。

爆誕したリアコの私が亡くなる事は無くても、このまま小さく小さくなって、ほとんど自覚しなくなればいいなと思ったし、もう二度と三次元の推しなんて作らないぞと心に誓っていた。


そうです。フラグですね。


リアコでしか生身の人間を推せなかった人間が、リアコでは無い生身の推しができた。


前述の通り二度と生身の人間なんて推さないと心に決めていた為、その人目当てで幾つもの舞台を緩ーく観ていた数ヶ月、推しではなく演技の好きな人、と称していた。友人にはそれはもう推しと言われていたが、断固として演技の好きな人と言っていた。

元推しのトラウマ、観たくもない舞台を観続ける苦痛、毎年数百万かけないといけない金銭面の負担と強迫観念、年々劣っていく体力と気力。
何もかもが「推し」を作るには足を引っ張った。

上記の心持ちのまま、その人を演技の好きな人、として緩く観続けて行きたいと思っていた矢先、とんでもなく面白い舞台を観劇する事になる。

その舞台の役自体、私にとても刺さる役で、役も、その人も、演技も演出も脚本も、全部好きな舞台だった。
これまで観た舞台の中で1番観劇回数が多い程面白くて、繊細で、何回観ても飽きなくて、
何回観てもその人が大好きになった。

そして、どんどんその人の存在が私の中で大きくなって行き、無駄な葛藤が始まった。

また「推し」を作ったら、前みたいに毎日毎日苦しくて眠れなくて無駄に調べて悩んで泣いて、そんな日々を過ごすのかと思うとゾッとした。

その人を「推し」ではなく「演技が好きな人」として観続けられるよう、表に出ている情報以外は極力調べないようにしたし、なるべく同担も見ないようにした。
手紙を出すなんてもっての外、座席も細心の注意と自分の希望を考えつつ取り(観やすい位置にはいたいが油断するとすぐ認知されるような所なので)、グッズも最小限しか買わないようにした。

だがその舞台の千秋楽にその人の演技を観終わった時、
こんなにも好きで好きで、大好きで堪らないのに、推しじゃないなんて言えない
と心の底から感じ入った。


演技の詳細を話すと身バレするので書かないようにしたいのだが(これだけ書いてるのでもう分かる人は分かるかもしれないが)、詳細を言えないのが本当に悔しい位とんでもない演技だった。

役を咀嚼し浸透させ、その役である事になんの違和感も感じさせる事なく、その役が一人の人間として板の上に立っている。
その役の呼吸と、鼓動と、体温を感じた。
その人自身はおらず、まさにその役の人は生きていた。

ただひたすらに、喜びと悲しみを感じずにはいられなかった。
悲喜交々と言うのはこういう事だ。

仕草も微笑みも、その役の人が生きている事実を全部鮮明に覚えておきたくて、混み上がる感情を押しとどめながら必死に見つめていた。
もう二度と板の上で会う事は無いその役の人が大好きだった。

これ迄ピンからキリまで舞台を観てきたが、その役として生きてくれた事に感謝したのはその人のその役が初めてで、
カーテンコールでは、震える身体で名前を呼ぶだけで精一杯だった。(念の為補足、カテコで声出していい舞台です。)



舞台観劇で泣く人って自分に酔ってるなーと思っていた私へ。
帰り道もうその舞台が見られない事が寂しすぎて泣きます。
突然号泣し出した人に引いてる知らない男性にガン見されます。

この舞台を観劇していた期間はこれまでの人生で一番最高の時間を過ごしたと自信を持って言えるし、これからもその人を観ていれば間違いないと確信がある。

事実、どんな舞台を観てもその人は輝いているのだ。瞳孔が勝手にかっぴらいてる。多分身体がその人を好きって本能で言ってる。

リアコでは無い推しがこんなにも楽しく幸せなものだとは知らなかった。
界隈が異なっても相変わらずソリの合わない同担は多いが、それでも前のように殺意なんて微塵も湧かない。

いつでも期待以上の演技をみせてくれるその人を「純粋に」好きで居られる事が幸せで、
邪心のない好きを持っているそんな自分も好きになれる。
なんて健全な本能だろう。

あと心配していた金銭面。
演技の好きな人がいる、とまだ推し認定を拒みながら話していた際、友人に「別に7桁かけなくても推しって言っていい」とよく言われた。
その時はまだ演技の好きな人で留まらせていたので、そんな訳あるか生身の人間を推すなら金を出せ、と言っていた。
つまり微々たる金しか出していない私はその人を推していない、という理論だ。

リアコは恋愛的に好きな人を見る為に金をかけるが、今の私は演技の好きな人を観る為に金をかけている。

未だに強迫観念は残り続けているが、「7桁以上かけなくても推し」と言う言葉への嫌悪感と罪悪感はもうない。

リアコじゃないからね、茶の間でもいいんだよ。
観たいものだけ観ればいいし、ゴミカス運営の舞台なんて観なくていいし、グッズの無限回収もしなくていい。
好きな様に好きでいればいい。

さようなら、リアコ。
初めまして、わたし。

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