自信を持つ才能。

昔から変なプライドはあるくせに、自信を持つということが苦手だった。近年耳にするようになった自己肯定感のなさというものに該当する。色んな経験や知識も年数を掛けたものについてはある程度のレベルになれたのではという気持ちはある。そこに関して卑下することは自分に頼って託してくれた人に失礼でしかないからそう思うようにはしている。

でも、根本的に自分にはセンスがないとか技術や知識がないとか、こんな歳して恥ずかしいようなちゃんとした「自分の理想」に遠いところにずっといることが無性に悲しくて虚しく思うことがしょっちゅうある。

結婚する前、好きな異性にフラれた時も「もっと私が美人だったら」「もっと私がスタイル良くてセンスが良ければ」「もっと私が明るくて素直な性格だったら」「もっと私が利口だったら」。もっと私が…と自分を責めてはどうしようもないのに追い詰めて。相手を責めるより自分を責めることが条件反射のようになったりして、こんな男こちらから捨ててやる!なんてことは殆どなかった。無様なフラれ方しかしてこなかった。よくイメージと違うと言われるけれど、私は全然淡白でもなければサバサバもしてない。自分が思っているよりも「寂しさ」に弱い。好きなことや人のことになると自分の優先度をいくらでも下げて尻尾を振って駆け寄る。自分をしっかり持っているクールビューティーなんて格好良さとは無縁な女。(勿論、関心のないことに対しては微動だにしないけれど)

要は自分に自信がないからこそ人や何かに依存しやすいのかなと思う。そして離れられると「全部自分が悪い」という気持ちになってしまう。

自己肯定感の上げ方なんていうものをSNSで見たりして少しずつ頑張ろうと思っていた時に、私が若者で唯一好きなバンド女王蜂のアヴちゃんが出ていた番組の動画が上がっていてわくわくしながら観た。その時に聞いた言葉が沢山私を救ってくれてて。

「私には才能がある、と思い込む才能しかなかったから」

でもそれを言ったのは大好きなアヴちゃんではなくて、一緒に出ていた大森靖子さん。彼女の音楽は恥ずかしながら正直全然聴いてない。でも、この言葉にとても救われた。

そっか、私は「自信を持つ才能」がないだけなんだ、と。

そう考えるだけでとても救われた。自信が持てないことも、自信を持てるほどの何かが自分にはあるかないかを考えることも、向き合いたくないなと思っていた。上の人を見上げては「何で私はこんなに何も出来ないのか」と思ってしまうのを力づくで矯正することすら疲れていたから。

なんだ、「自信を持つ才能がない」だけと考えるとすごく楽になれた。スポーツ選手になる才能がない、みたいな感覚で「なら仕方がない」と割り切ることが出来た。一番ストンと入ってきて、無理なく腑に落ちた。

自信が持てれば一番良いし、自己肯定感が高いポジティブな人に憧れる。ネガティブや謙遜が過ぎる人って私の好きが伝わっていないということに寂しくなってしまうから。でも自分の土台は既にこの30年程でしっかりと固められてしまっていてトレーニングを1年やそこらしたところで簡単に変えられるわけも無い。変われない自分がとても嫌いだった。

でも「じゃあ仕方ないわ。だって自信を持つ才能がないんだもの」って考えて良いんだ。開き直っていいんだ。才能がないなら仕方がない。努力で何とかなることも沢山あるけれど、ある程度大人になればどうにもならないことがあるってことも理解してしまう。それは悲しいことかもしれないけれど。

自己肯定感を高めるために今年をポジティブ日記を頑張って付けている。でも毎日一日の終わりに思うのは「あれが出来なかった」「もっとこうしたかった」ばかりで。他愛もない「ご飯を作った」などと記す行為に「そんなのわざわざ書くほど大したことないのに」と嫌な自分が囁いてくる。どうしようもねえなと思いながら、「仕方ない。自信を持つ才能がないのだから」と心を整えていくしかないなと。

こんなにある程度長く生きてるのに、自分の愛し方もまだまだわからないなんて。よく「生きるの向いてない」と心の声が口から零れてしまう。

自分にも優しくするって難し過ぎて。みんなどうやって生きているんだろ。色んな人に教わらなきゃな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?