見出し画像

 心をなくす忘と忙〜*土下座教放浪記

 「心の時代」と言われて久しい。
 「物より心」という対比で用いられる。では「心とは何か?」。情報化時代で「情報が氾濫している」のに「心が干からびている」という話―。
 「心はどこにあるのか?」。「体に疲労があるように、心にも疲労がある。体の疲労は、体を休めることで回復する。心の疲労は逆に散歩やスポーツ、趣味、旅行などでアクティブに行動することで癒される。心の筋肉を鍛えておけば逆境・苦境・絶望を跳ね返す精神力になる」と私は信じている。
 「心の筋肉」とは私的造語だが、それだけでは説明不十分かもしれない。古来から「心」は研究され、なお、現代に至っても結論は見出されていない。人間の精神作用だというが、それだけでも説明はつかない。
 「心」は英語の「heart」と「mind」の二通りある。heartは「心臓、心」で、mindは「心、精神、意識」だから、「心」はmindに近い。
 漢字には「心偏」や「立心偏」が多い。中でも忘却の「忘」、多忙の「忙」は心の有り様を端的に表した字として特筆できる。
 「忘」と「忙」は共に「心を亡くす」ことだ。
 現代人は多忙のあまり健忘を余儀なくされ、そのつもりはなくても忘恩の徒と誤解されるときもある。だが不思議と年末の忘年会だけは健忘とは無縁だ。
 大切なのは「忘」や「忙」というマイナス用語に「思い」を致すことではないだろうか。
 「思い」の「思」は心の田を耕すと書く。心を亡くした人間は「忙」や「忘」の奴隷になって、「思いやり」さえも「忘れて」しまう。
 つまるところ、忙しいから忘れるという現象は、一番大切な自分を忘れる自己放棄に他ならない。
 脳科学関係のwebサイトをネットサーフィンすると、難解な用語がおどる専門的な情報にぶつかるが、神経科学者で東北大学の大隅典子教授(おおすみ・のりこ=神経発生学・発生発達神経科学)の話が一番わかりやすかった。すなわち。
 「現在、脳研究者は、心は脳がつむぎ出すものと捉えています。別の言い方をすれば、心は脳の内的現象です。心には非常に広い意味の精神活動、認知・情動・意志決定・言語・記憶・学習などが含まれます。このような心の営みがどうして成り立つかというと、それは脳の数百億もの細胞の秩序だった働きに依存しているのです。ちょうど、コンピュータの中に膨大な数の素子やら回路があって、その働きによって、表計算をしたり、漢字変換しながら文章を作成することができたり、画像処理や図形描画が可能になっているようなものだと捉えてもよいでしょう」
 大隈教授の話を飛躍させれば、人間の肉体と精神をつかさどるのが「心」といってもおかしくはない。
 目を、我々の周囲に転じる。
 現代の最先端を行くAIは、端末の携帯化でオフィスや家庭は勿論、どこにいても、ついに、歩いていても必要な情報が手に入るところまで進化してしまった。
 「情報=行動選択」のツールとして、もはや携帯電話は現代人にとっては必須のライフラインだ。電車内で携帯をチェックする風景は日常化している。
 現代人はオンもオフも、情報享受や、自ら発信することに忙しい。「それで心が豊かになれますか?」という「自らの心の問いかけ」も「忘れ」、ここでも心を亡くしているのだ。
 情報化時代の利便性は、ただ忙しいだけの人間に「心の時代」という幻影を「供給」しているだけだ。
 では、どうすれば良いのか?
 本当の心の豊かさというのは、それを得るために、苦難困難という壁を乗り越えようとする挑戦にほかならない。
 リンゴ狩りで実ったリンゴをもぎ取って食べるのと、天気の日も雨の日も自分で丹精こめ育てたリンゴを食べるのとでは、意味も喜びも違う。
 やはり「心の筋肉」を鍛えるほかない。あなたも私も、「心の時代」という「情報の浅瀬」を安全、安易に渡っているに過ぎない。
 いっそ。思い切って情報の時代という乗り合いバスを一人で降りて、情報の時代とやらを「断捨離」してしまうところから、真の心の時代を拓いていかねばなるまい―。さあきょうも冷静忍耐寛容謙虚反省感謝。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?