本当の姿とは

〈2023年8月に私の教室の会員向けに書いたコラムです。内容はあくまでも私個人の意見です。〉


「本当の姿とは?」

暑さ本番の8月になりました。昨年のこの時期、私はお盆休み直前に熱を出してしまい、休みを棒に振りました。暑さによる疲労蓄積と、休みに入ることで氣が切れることが曲者です。皆さま体調に氣をつけて、楽しい夏休みをお過ごしください。

さて、先月は普段接することのない方々に心身統一合氣道をお伝えする機会に恵まれた、大変貴重な経験の多い月でした。コロナ下で自粛されることの多かった企業研修の場にアシスタントとして参加させていただいたのが一つ。ここでもとても多くの学びを頂きました。それから、自分自身が講師をさせていただいた二つの機会がありました。一つは、ある保育園での年中・年長の30名の園児たちに向けての、1時間の体験講習。もう一つは、小学生20名が神社で宿泊体験をし、その一コマとして1時間の体験講習。普段からこどもクラスの指導でこども達と接しておりますが、全く合氣道に触れたことのない、初見のこども達、それもこんなにたくさんのこども達に指導させていただいたのは、まったく初めての経験でした。

どちらの場合も、まずは興味を持って話を聴いて欲しいので、演武を観てもらったり、一緒に準備体操をして号令をかけながら身体を動かしました。そうして、姿勢や心の静め方、心の使い方など、いつも教室でお伝えしているようなことを、一つ一つ体感してもらいながら、順番に行っていきました。特にこども達に伝えたかったのは、みんなが持っている力(能力)は、本当にすごいものなのだ、ということです。人間本来の力を最大限に発揮すると、それだけで誰もが凄いことが成し遂げられる。そう信じて、自信を持って生きていく子が増えて欲しい。そんな想いで、いつもこども達には接しております。

で、この二つの機会(保育園児30名と小学生20名)、それぞれどんな様子だったと思いますか?事前の私の想像では、小学生20名も、もちろん凄いエネルギーで賑やかに大騒ぎになると予想しました。そして実際にそうでした。でも、保育園児30名ともなると、もっともっと更に大騒ぎになり、グチャグチャにされて収拾がつかない状態になるのではないだろうか、そんな風に考えていました。しかし予想に反して、保育園児30名の方は、思っていたより格段におとなしく、静かに話を聴いてくれました。自由に動き回る時間も、さほどワチャワチャとすることもなかったのです。事前に私が警戒していた、いわゆる学級崩壊のような状態には全くならなくて、ちゃんと聴いてくれていましたので、講師としてはとてもやり易かったのは確かなのですが、一方でちょっと寂しさのようなものを感じたのも事実なんです。

二つのケースの違いは、小学生の方は「神社の宿泊体験」という、まあ遊びに近いイベントの中の一コマでしたが、保育園の方は、いつもの授業(?)の一環として、毎日通っている保育園で、毎日見られている先生方もいる中での講習だった、という点ではないかと思っています。保育園児30名は、毎日の保育園ライフを共に過ごしている、こどもなりに「公的な場」という認識のある、集団生活の場での講習なので、言わば「よそ行き」な姿だったように感じました。一方で小学生20名は、夏休みに入っており、普段接していないこども達が神社の宿泊体験という「ハレ」の場に集い、工場見学や試食体験、銭湯での入浴や普段と違うみんなとの食事など、遊びや旅行の中の一部ということで、とてもリラックスしたありのままの姿、という印象でした。こどもなりに、場に応じて自分の言動や態度を変えているものだ、というのは認識しておりましたが、こんなにも様子が違うものか!と新鮮な驚きを感じました。

さてこの二つのケースでのこども達の見せてくれた顔の違い、どちらが本当の姿なのでしょうか?「よそ行き」だからといって、きちんと静かにしていた保育園のこども達が、ニセモノだなどとは、当然思いません。小学生たちも、学校の授業の中では、同じように静かに話を聴く「良い子」な姿ももちろん持っているはずです。そういう意味で、両方ともが本当のこども達の姿であることは確かなのです。ただ、どちらの姿を皆さんは見たいでしょうか?どちらの状態の時に、こども達の本当の力が発揮されるのでしょうか?

具体的で分かりやすい事例をきちんと示すことは出来ないのですが、私が感じたのは、宿泊体験のこども達の方が、圧倒的に強いエネルギーを発揮していて、いわゆる「氣が出ている」状態であった、ということです。静かにきちんと話を聴いて、言うことをきいてくれる。それは大変ありがたいし、良い子たちだな、と感じるのですが、パワーとエネルギーはあまり感じられませんでした。これは、そこの保育園の子だから、ということではなく、管理された環境であるか、自由な環境であるか、の違いだと私は思っています。

集団生活、集団行動の中で、人に迷惑をかけず、管理者の進めたい方向へ集団が進んでいくのを邪魔せず、おとなしく指示に従って、折り合いをつけていくこと。これが良しとされるのが、私がこどもの時に受けてきた学校教育であったと思います。そうして、受験に勝ち抜き、偏差値の高い高校・大学を目指し、安定していると言われる大企業に就職をし、定年まで勤め上げて退職金と年金で、安泰な老後を静かに過ごしていく。私の世代が、親たちやメディアや周囲から何となく植え付けられた概念、こうしていけば幸せな人生を送れる、そんなモデルがありました。

私のこども時代はいわゆる優等生で、この固定観念に則って受験や就職を勝ち抜き、高所得と安定した雇用の保障された銀行に入りました。親戚や友人からは、すごいね、と賞賛され、何となく成功したような氣にもなっていました。しかし18年間勤務して、色々と考えるところがあって、40歳で今の仕事を選んで10年になります。前の職場の知人たちからは、「ドロップアウトした」と思われているかもしれませんが、今現在の自分の感想は、圧倒的に今の人生の方が楽しく成長できて幸せで、高齢者へと向かっていく今後の人生についても、完全に正解を選んだ、というのが実感です。(まあ先は長いですけどね。。。)

管理された集団生活が不要だとか、学校教育がダメだとか言いたいわけではありません。必要でもあるし、学ぶことも多いし、我が子だってちゃんと高校生活を送っています。ですが、そればかりに埋め尽くしてしまうことで、本来発揮されるべき能力や、本当にしたいこと、なりたい自分などが、見えなくなってしまうのではないかな、と思っています。宿泊体験に来ていたこども達、あの素晴らしいエネルギーを抑圧する方向にばかり押し込めていくことが、本当の教育だとは思えません。言われた通り、指示された通りの言動をすることは、ある意味「楽なこと」です。本当に考えて行動する必要がないからです。自由な環境、何を言ってもやっても否定されない環境の中で、はじめて本当にやりたいこと、なりたい自分が見えてくるのではないでしょうか?保育園や幼稚園、小中高の学校、大学、そして会社と、多くの人は常に管理された集団の一員として生きています。そういった管理された環境では出てこない、本当の自分の姿があるんじゃないかな?そして、その本当の自分が望んでいることは、何なのかな?そんなことを自分自身に対して、またお子さんに対しても問いかけてみる。そして、本当に自由にそれを追い求める環境を得ることで、本当の本来のエネルギーや能力が発揮される、そんなことがあるのではないでしょうか?

心身統一や氣について学ぶことは、こどもにとっても大人にとっても、本来の能力を発揮する大きな一助となります。本当に自由に考えて行動して、自分の能力を使い切る。そうして更に大きく成長していける。カゴの中に小ぢんまりと生きるよりも、自由に羽ばたいて幸せを得られる人生を送る、その可能性の芽を摘んでしまうことのない人間でありたいと思っています。

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