改めて『氣』について学ぶとは?

※2023年4月に私の教室の会員の皆さんに向けて書いたコラムです

新年度が始まりました。春は出会いと別れの季節、なんて言いますよね。私の教室でも何名かの方が、それぞれの事情で離れていくこととなり、また何名かの方が新しく心身統一合氣道の門を叩いてくださいました。入ってくる一方の方が嬉しいようではありますが、出ていくから入ってこられる、というのが自然の摂理でもあるのでしょう。離れて行った方には、是非またいつかどこかで、心身統一合氣道を思い出していただき、再会出来たら嬉しいなと思っています。これまでの私の教室での入会者は、3歳から78歳までいらっしゃいます。いつからでも、どんな時からでも学びは始められるものですね。つまり、チャンスは無限にあるものだということです。

そんな新年度一発目のコラムは、改めて私自身が最近になって実感し、考えている事を皆様に共有させていただきたいと思います。『氣』について学ぶとは、『氣』の教えに触れることとは、どういうことなのか、というテーマです。
きっかけとなったのは、先月(2023年3月)の東京出張です。この東京出張では、これまで、会の活動の中心から少し見えにくいところにあった印象のある「氣圧法」の講習を受けてまいりました。私自身は、氣圧法の「基礎通学コース」の講師をさせていただいており、これまでもずっと携わってきたこの氣圧法ですが、今回の出張でとってもとっても大きな刺激をいただき、うまく表現できませんが、「リミッターが外れるのでは?」と感じるような、大きな転機をいただいたのが、この出張でした。詳細についてはここでは割愛いたしますが、これからの大きな動きの源となるもので、これからどうなっていくか、とてもワクワクしております。

●まず何よりも「氣」が出ていること

心身統一合氣道を学ぶことは、すなわち「氣」について学ぶことである、と私は考えております。手首をどう捻れば相手を倒せるか、だけが知りたいのでしたら、他の所へ行った方が早いのかもしれません。(と言いつつ、私の合氣道への興味は、まさにそこからスタートしていたのですが。。。)なぜ「合氣道(合気道)」という名前なのか?このことの意味が、とてもハッキリ明快であり、そして他の合気道とは異なっているのが、心身統一合氣道です。(恐らく)
”「合気道」、つまり、「気」を「合」わせるんだよね。相手の「気」に合わせて、相手の力を利用するから「合気道」なんだよね。”
というのが、恐らく一般的な「合気道」という言葉への理解ではないかと思います。

心身統一合氣道においては、「『氣』に合する(がっする)の道」と言いますが、この時の『氣』は「相手の…」ではありません。これを「天地の『氣』」と言い、大宇宙・大自然そのものが『氣』である、という解釈です。そして「天地(=氣)と一体となる」ことが、心身統一合氣道における大目的となっています。つまり、「相手に合わせる」が目的ではなく、「大自然と一体となる」ことで、人間が本来与えられている能力を最高に発揮することが目的となっています。とても壮大なテーマであると思いませんか?私はよく「単なる護身術ではない」「人を投げることが目的ではない」とお伝えしていますが、その意味はここにあります。常に最大限に能力を発揮するとは、何も誰かと闘う時だけではありませんよね。
例えば、「心身の健康」においても、常に大自然に与えられた能力を最高に発揮できれば、その人にとって最善の健康状態でいられるはずです。「人間関係」において、「仕事」において、「学び」において、「スポーツ」において...、人生万般において最善の状態に向かうことができるのが、この「『氣』に合するの道」ということです。

我々はこの「天地と一体」となり最大限に能力を発揮できる状態を、「氣が出ている」と呼んでいます。詳しい意味については、私に会った時にお尋ねいただくか、藤平光一先生や藤平信一先生の著書をお読みください。(「コミュニケーションの原点『氣』にあり」藤平信一著がオススメ)
そして、この「氣が出ている」時に、「心」を明確に使うことが出来ます。そして、いつも言いますように、「心が身体を動かす」のですから、その明確に使った心の通りに、身体に現象が現れます。想い通りのことが実現できるということです。「心」を使った通りに「身体」が動くのですから、心を良い方に向ければ良いではないか、と思うのですが、重要なのは「心」を明確に使えない状況が存在している、ということです。

例えば仕事で事務作業をする時、「これが終わったら、仕事を切り上げて飲みに行こう!」などと氣が出ている場合は、その作業はスイスイと進む感じがしますよね。心を前向きに使えていて、それが身体に表れている状態です。しかしこれが、直前に上司から理不尽な説教などを受けて、氣が出ていない時だとどうでしょうか?心を前向きに使った方が、仕事は楽しいしはかどるもの、と分かってはいるものの、直前の説教によるモヤモヤが晴れないことにより、「心を前向きに使う」が出来ない。「分かっちゃいるけど、出来ない」という状態になります。
お説教のモヤモヤが残って、心を自在に使えていない自分自身に氣づき、一旦コーヒーを飲むなど一服して、自身の氣の滞りを晴らすことが出来れば、「よし!この作業を終わらせるぞ!」と改めて心を前向きに使って仕事をすることができ、結果、仕事ははかどるでしょう。

このように、まず何よりも第一に、「氣が出ている」状態にあることが、自身の心と身体を最大限に活用し、最高の能力を発揮するために必要なことである、ということです。氣 → 心 → 身体 、の順番に作用しているわけですから、「氣が出ている」状態であることが、そして自分や他人がそのような状態であるかどうかを察知できることが、いかに重要なことであるか、お分かりいただけるのではないでしょうか。

「氣が出ている時、心が自在に使える」、という氣の原理があります。これを知っているかどうかで、自分自身の能力発揮だけでなく、他人への接し方や導き方が、総て根本から変わってしまうぐらい、大きく変化することと思います。

●「氣」を学ぶとは?

では、なぜ「氣が出ている」時に、人間本来の能力を最大限に発揮することが出来るのか?これはあくまでも私自身の考えであり、これまで私が先生方から直接的な言葉で教わったことではない、ということを注記しておきます。

天地(=大自然)が、それぞれの生物や植物などに与えた能力は、とても素晴らしいものである、という考え方に、異論のある方は少ないのではないか、と思います。特に人間に与えられた能力は、凄いものです。呼吸をすれば、酸素を全身に巡らせて細胞がエネルギーを生み出し、それにより生じた二酸化炭素を血液が運び、肺から体外に放出する。食事をすれば、胃や腸が消化して吸収して血肉となり、不要なものを排泄する。細菌やウィルスの侵入には、発熱や咳や鼻水など、様々な機能が発揮されてこれに打ち勝つばかりでなく、次の侵入に備える機能まである。などなどなど。
人類の発生がいつからなのかハッキリとは分かりませんが、いつの間にやら世界の人口は80億人にも達するのだとか。ちょっと前まで50億や70億だったのに、どんどん増殖しています。(日本は人口減少中ですが…)いろいろな見方はあるかもしれませんが、このように生成発展していく種族が「人間」なわけで、天地自然が生み出した「人間」の能力の凄さに疑いの余地はないように思えます。

ということは、天地自然が人間に与えた能力をしっかりと発揮していければ、人間は本来、健康であり、幸せであり、明るく生き生きとしているものである、と言えます。ですが、氣が滞っている時、天地自然と一体でない状態、つまりは与えられた能力を発揮できていない状態に陥り、良い方向へ進むことが出来なくなってしまいます。だから、誰もが「氣が出ている」状態でいつもいられるように、自分自身を整えることが大切であり、誰もが他人と接する際に、「相手の氣を尊ぶ」ことを心がけることにより、すべての人々の「氣が出ている」世の中になり、良い世界が作られていくはずである。そんな風に私は考えております。そう考えると、自分に対しても他人に対しても、その本来の性は「善く生きようとするもの」であり、その本心の奥底には「何をすべきか」「何が正しいか」を分かる能力を持っている、と言う前提で人と接することも出来ます。
そして、ただ思うだけでは意味がなく、そういう自分であるように、そういう自分で人に接するように、実際の言動で表せるよう心がけて、日々を生きております。が、もちろんそうもいかない時もあり、「言うだけ番長」になってしまっている時もあることも自覚しています。そんな自分を振り返り、氣づく機会があるのは、この心身統一合氣道を日々稽古し、人にお伝えしているからこそである、とも感じております。

この考えは、根本に置いている「氣」(=天地)に対する信頼のようなものが、根源になっているように思います。こう言うと、とても誤解を生じる可能性のあることですが、「天地自然を信じているか?」という問題です。皆さんはどう感じますでしょうか?
反対に、天地自然を信じることが出来なければ、後から後から足りないものをくっつけたり、切りはりしたりして、ハリボテのような自分を繕い続ける人生になってしまうのではないでしょうか?あれも足りない、これも足りない、悪くなったから切り落として他人からもらってきて…、ということを追求して、進むべき先が分からなくなってしまっている、という側面を、今の医療に私は感じたりしています。(もちろん全部が全部ということではありません)
天地自然に与えられた能力を最大限発揮する、それで及ばないものであれば、それは仕方のないことである。しかし、及ぶ範囲のものだけで、人生は十二分に幸せなものになる。そんなところが、現時点での私の理解や考えです。「氣」について学び、天地自然を信じ、それに最終的なところを任せて預けて放ってしまう。そうすると、とっても楽であり、自然であり、氣持ちよく生きられる、というように私は感じていて、多くの皆さんにその安心感や充足感を味わっていただきたい、と思っています。少しでも、同じ思いを持ってくださる方が増えていったら、嬉しいなぁ。

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