道場は「氣」が出る場

※この記事は2022年11月に私の教室の会員向けに書いたコラムです。内容はあくまでも私個人の意見です、

9月・10月と、心身統一合氣道における「指導」「教育」のあり方に関わるテーマを採り上げてきました。(…つもりです)今月は更にその根幹になる考え方につきまして、皆様と共有していきたいと思います。

9月「良いところを伸ばす」、10月「出来た、を積み重ねる」という様に、最近、指導とはどうあるべきかについて考えてきました。それはなぜかと言えば、心身統一合氣道会全体としての大きなテーマとなっているからです。昨年度より、我々指導者は、会長との少人数での意見交換の場を設けられています。そこでは、これまでの会の中で起こったトラブルの事例を参考に、指導者とはどうあるべきかを考え、意見を述べ、会長の考えを聴いています。

心身統一合氣道は武道です。一般的に武道の世界には、古くから独特の感覚があります。絶対服従的な師弟関係、教わるより盗め、考えるより稽古しろ、などのようなものです。多くの人の固定概念となっていて、「武道というのはそういうものじゃないか」と思われています。「怪我ぐらいするのが当たり前」なんていうのもそういう思い込みの一つです。ですが、会社組織などの一般社会においては、こうした考えは徐々になくなっていきつつあります。「働き方改革」とか「パワハラ防止」の文脈の中において、人々の意に反することを押し付けるようなことは、あるべきではない、という社会に向かっていきつつありますよね。私はそれ自体悪いことではなく、人間の進歩発展の一部なのではないか、と思っています。私の小学校時代は、毎日のように生徒を殴ったり蹴ったりする担任がいました。小学生ながら、「言葉ではなく、暴力によってしか物を伝えられないような人間に、教師の資格はないだろ!」と感じておりました。今はそんな人は、普通すぐにクビですよね。そういう時代からすれば、これは良き方向への変化だと捉えています。(負の側面もあるのは分かっていますが。)

そうは言っても、やっぱり武道の世界では厳しくなければいけないはず。その厳しさとは、時には心身にダメージを与えるようなものでもあり得るのではないか。。。世間一般の人々には、そう思っている人もいるかもしれません。そう思う人が一般の人の中にいるのは、大した問題はありません。ですが、時折り私のような指導者の立場にある人の中にも、このような考え方で会員の皆さんに接する人もいます。特に、心身統一合氣道で学んでいることは、その人の心の状態や普段の習慣が変わることで、身体に表れることも変わってくる、というものなので、タチが悪くなります。例えば、「そんな動きをするなんて、あんたの性格に問題があるんだ』とか、「これだけ言っても上達しないのは、あんたのここまで送ってきた人生そのものが現れているんだ」とか。こう言ってはなんですが、たかだか合氣道の技やちょっとした動きの問題です。それが出来ないからと言って、相手の方の人格や人生を否定してしまう…。
武道なのだから厳しくても良い、その人のためになるなら何を言っても良い、そんな考えが土台にあることで、こういうトンデモ発言が飛び出してしまうのです。皆さんはどう感じられるでしょうか?

ちなみに、武道においてだけでなく、会社の上下関係などの中でも、こうした発言は飛び出しますよね。仕事なのだから、みんな生活がかかっている、だからこそ厳しくなければならない…。そういう発想を持つ人は、こんな発言を簡単にしてしまいます。私自身、前職の仕事でミスをした時、上司から「こどもが生まれてから、お前はこどもボケしているんじゃないのか?」と言われました。リアルに「殺意」をおぼえたのを思い出します。身体が震え上がるような「怒り」の感情、そうそう発することはないのですけどね。。。しかしこの上司は、きっとすっかり忘れているでしょう。15年以上経ってもリアルに思い出せる私の感情とは、ものすごい温度差ですよね。

武道の稽古でも、いくら真剣な仕事の場だからと言っても、相手の人格を傷つけたり、ないがしろにするようなことは、許されるはずがありません。こうしたハラスメント行為が起こる土壌にあるのは、人はそこに「何のためにいるのか?」という、根本の考え方に問題があるのだと思われます。
心身統一合氣道の道場教室の話をすると、合氣道や心身統一道という「技能」を「身につけるため」に道場教室にいるのだ、という考え方はどうでしょうか?忙しい中時間を割いて、会費を払ってまで教室に通うのは、心身統一合氣道の「技能」を身につけるためなのでしょうか?一見すると、これは正しい考え方のようですよね。この考え方でも、会員の方個人が、自分自身に対してそれを課すというのでしたら、何も問題はないでしょうね。ですが、その思いを我々指導者が持つこと、または会員の皆さんでも、その思いを他者に向けてしまう時、それは時に問題のある言動につながります。

指導者が、5級の技をなかなか覚えられない会員の方に、「何回言えば覚えるんですか?やる気あるんですか?」なんて言ってしまう。これは「身につけるため」が一番になっているから、その会員さんの気持ちも性質も特徴も、何も見えていない発言ですよね。「相手の立場に立つ」という心が、どこにあると言えるでしょうか?会員さん同士でも、例えば一緒に昇級しようとするパートナーの方に、「私は一生懸命稽古しているのに、どうして真面目に覚えてくれないの?」なんて言ったらどうでしょうか?
心身統一合氣道を稽古する方の動機や日常生活の事情は、本当に人それぞれ。当たり前ですよね。お相手の方は、もしかしたら、仕事と家事と親の介護と子供の送り迎えと、毎日ヘトヘトになりながら日々を送る中、やっと時間を作って、氣を出そうと稽古しに来ているかもしれないんです。その教室で、「なんで技を覚えてこないのか!?」なんて責められる。そんなことが起こってしまうかもしれないんですよね。

我々が今、肝に銘じているのは、道場教室がどういう場所で、「何のために」会員の皆さんが来られているのか、ということです。その答えとして、道場教室とは、「氣が出る「場」である」、という考え方をしています。心身統一合氣道をする目的は、人それぞれです。健康のため、護身のため、仕事に活かせるから、人生の役に立つから、などなど様々です。先ほどの例で言えば、どんどん技を覚えて上達したい、それが一番の人ももちろんいるでしょうし、それはとても良いことだと思います。ですが、そうではない方もいるのが当たり前ですし、それはそれで、きちんとしたその人の目的として、認められるべきものですよね。そのどんな目的で来た人も、それに向けた稽古や体験、学びがあれば、「来て良かったな!」と、元氣になって帰っていただけるはずです。元氣が出る、やる氣が出る、勇氣が出る、などなど、これを「氣が出る」と呼んでいます。心がプラスになる、と言っても良いですね。

技能を身につけることを目的とすると、そこには「能力」をみるという視点が生まれます。大人ももちろんですが、特にこども達、現代社会においてはみんなが「能力」で存在価値を計られている場面が多くありますよね。学校や塾で試験の点数の優劣をつけられ、運動でもタイムが速いとか、試合の勝ち負けとか。大人の方は仕事の中で、営業成績や勤務評定で能力を基準にして評価される日々を送っています。心身統一合氣道においても、昇級や昇段、大会での入賞などのような基準は存在しています。ですが、教室を「氣が出る「場」」として定義づけることで、そうした基準によって会員の皆さんを評価するのではなく、それぞれの方の目的や志向に寄り添って、それぞれの皆さんの「氣が出る」を目的に稽古をしていく。すべての会員の皆さんが、その能力ではなくて、その性質を認められて、存在そのものを認められて、安心して伸び伸びと自分らしく稽古できる「場」としていく。それが我々指導者の果たすべき役割である、ということです。

私はこの ”教室とは、氣が出る「場」である” という理念に基づいて、これからの教室運営をしていきたいと思います。そして是非、会員の皆さんも、特に会員さん同士の関係において、この理念を頭に置いて教室にお越しいただけたら、とても嬉しいです。みんなが相手の立場に立ち、相手の氣が出るように接することを考えている。そんなますますプラスな空氣に満ちた教室を目指して、皆さんの「氣が出る」を最優先に教室運営をしてまいります。そんな考え方をする人に囲まれて日々を送ることができたら、とっても幸せだとは思いませんか?自分も相手も「氣が出る」ために、日々を送る仲間を、どんどん増やしていきたいと思っています!!

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