それはあなたの本心なのか?

※2022年12月に私の教室の会員の皆さん向けに書いたコラムです。内容はあくまでも私個人の意見です。

「それはあなたの本心なのか?」

2022年最後の悠悠合氣道通信となりました。2022年、どんな一年だったでしょうか?私個人にとっては、色々と大きな変化・躍進のきっかけとなる出来事が多かったように感じております。そして、皆さんのお陰様で、今年も一年間、とても充実して楽しく躍動し続けることが出来ました。本当に皆様感謝しております。有り難うございます。来年は、さらに皆様の進化発展のお役に立てますように、私自身精進を続けていきたいと思っております。進んでいくその先に光が見えていること、そう信じていられることが、日々を生き生きと過ごしていくために必要な糧になると思っております。理想を掲げて希望をみつけ、一緒に明るい未来に向かって走っていけたら嬉しいです!!

そんな言葉を吐いてみて、最近の世の中の風潮を踏まえてみると、何だか浮いてしまうと言いますか、「世間」の空気とは合致していないような、そんな不思議な違和感を感じてしまうのは、私だけでしょうか?希望に向かって日々を送り、それを叶えていく未来を信じていく。そんな話は、漫画やアニメの中ですら、あまり普通に見かけることが少なくなってしまっている、それが今の日本という国の状況なのかもしれません。(外国のことはよく知りませんけど。。。)
「希望」とか「夢」とか「未来」とか、そんな言葉が宙を浮いた現実味の感じられない言葉になってしまう、特に大人はそういう人が多くないですか?そして、表面的な言葉だけかもしれませんが、こども達ですら、同じような空気に流されてしまっているのだと思います。こども達の将来なりたい職業の上位は、「会社員」「公務員」です。そもそもこれは「職業」ですか!?これは全て、我々大人のせいです。我々大人の姿を見て、こども達がこう感じてしまっているわけですよね。「今どきのこどもは。。。」ではなくて、今どきの大人のせいなんですよね。

しょうがないじゃないか、生きていくためには!夢や希望では食べていけないんだよ!それが現実的ということだよ!

本当にそう思っていますか?それはあなたの「本心」なのでしょうか?今回は、その「本心」について、考えてみたいと思います。

まずは私自身の体験からお話ししてまいります。それは、私が40歳まで勤務していた銀行を退職して、今の世界に飛び込んだ時のことです。
32歳で心身統一合氣道を習い始め、34歳で氣圧法の勉強を始めた私。35歳の時に初段を頂いた後に大阪に転勤となり、それから40歳で退職するまでは、実は合氣道の稽古はまったく出来ませんでした。時間が作れなかったんです。氣圧法の勉強だけは続けて、そのために道場に通っていましたので、「氣」の学びをやめていたわけではありません。2011年には「氣圧法認定者」という、いわゆるプロとして氣圧をする資格をいただきました。しかし、会社員として仕事を続けていると、その氣圧をお仕事としてすることは出来ません。時間もなかったし、副業は禁止だし、それを求めてもらえるようなお客様もいません。このままでは、氣圧も合氣道も出来ない。もうすぐ転勤で大阪を離れなければいけなくなる。そんな危機意識からの、この時点での退職でした。2013年の3月でした。資格があるといっても、世間的に何も認められていないし、看板になるようなものでもない「氣圧法認定者」。合氣道は初段、指導者の資格もありません。会社員を続けている限りは、この状態が変わらない。氣圧も合氣道も、深めていきキャリアを上げていくためには、まず退職しなければ!というだけの、今考えれば無謀極まりない、無鉄砲・無計画な退職でした。

この時点でお仕事になり得るものは、氣圧だけ。合氣道は、道場に通って練習したい!というだけ。そんな私が退職時に考えていたことは、いかに氣圧でお客様を作って、これを「食べていける」仕事にできるか。この時点で、合氣道は、ただの趣味のようなものでした。もちろん、将来的に心身統一合氣道の指導者となって教室を開きたい、という思いはあったものの、それを現実的に思い描けるほど、合氣道のことをわかってもいませんでした。そして、「氣圧が好きだから、素晴らしいものだから、世に広めていきたい」という思いで、自分は会社を辞めて独立したのだ、と思い込んでいました。
ですから、いかに氣圧をさせていただける人を増やすか、を考えて色々な行動をしていました。銀行員時代の取引先の社長達を回ってみたり、取引先企業のスペースを貸していただいて、そこで氣圧をしてみたり、ブログを書いたり、異業種交流会に参加したり、等々。。。2014年の春には、合氣道二段になり、指導員に任命をいただきました。そして夏から合氣道教室を始めることができ、少しずつですが会員の皆様が増えていきました。
この時点では、収入の核となるのは氣圧でした。それで私は、人と会う時は「氣圧法認定者」というよく分からない肩書きの人として会ってました。「合氣道の教室”も”やってます」というような。ですから「心身統一合氣道の人」というよりは、もっと知名度のない「氣圧の人」として、世間に認知されようとしていたわけです。今思い出すと、冷や汗をかいてしまうような勘違い野郎です。。。

転機が訪れたのは、独立から4年ほど経ってからでしょうか。ある人とお話をしていて、結局私はどこへ行きたいのか、と聞かれて、「氣圧法をもっと広めて人々に教えていきたい」というようなことを口にしました。その瞬間、お相手の方も私の方も、「ん!?」と一瞬空気が凍ったような、おかしな違和感を感じました。多分私が思い出したのは、その瞬間でした。
何を思い出したのかというと、私がなぜ氣圧の勉強を始めたのか、ということでした。34歳の時のことです。よく言っているように、私自身は大病を患った経験もなく、病気とは縁遠い人生でしたので、ぶっちゃけ「健康」ということに、それほどフォーカスしたことがありませんでした。確かに、息子の2つの病(アトピーとてんかん)を経験して、人間本来の生命力によって人は良くなっていくのだ、ということを実感し、この道に入ることを決めたのですが、そうは言っても、氣圧をやりたくて仕方がなくて始めた、というよりは、「心身統一合氣道で生きていくため」には氣圧をできるようにならなければならない、という考えで氣圧法を始めたんです。つまり、生涯をかけてやっていきたいのは、「心身統一合氣道」であり、氣圧はその一部であったはずだったんです。合氣道を一生やっていたくて、合氣道で生きていきたくて、その補助的な手段だったはずの氣圧法でしたが、独立時はそれが唯一の生活の糧であったために、私自身、その氣圧法を目的化してしまっていたことに、この時ようやく氣がついたんです。「ああ、見るべき方向を間違っていた。合氣道の教室を持てるようになったのだから、合氣道を全力でお伝えすることに100%心を向ければ良いんじゃないか!」と。

皆さんお分かりでしょうか?私は、会社を辞めるというとてつもなく大きな決断をしたその時点でさえも、自分の「本心」を見失っていたんです。まあ、氣圧法は心身統一合氣道の一部のものですので、大幅に方向性を間違えていたのではないかもしれませんが。それぐらい、「本心」って見えていないものなのだ、ということです。自分でそう思っている、そう考えている。そのことは、本当の自分の心の奥底から湧き上がる、本当の意味での本心なのか、自信を持っていますか?
この自分の本心に氣づいてから、私は初めて自分の進むべき方向に全力で走り出すことが出来たと思っています。それまでは、本当に道に迷いながら、あちこちをフラフラと漂って、生き方を定められていませんでした。「本心」に氣づき、それに全身全霊を注ぐ。これが出来ると、迷いや不安はなくなるのだと感じています。

前述のこども達も、本当の本心で会社員や公務員になりたい、と言っているわけではないと思います。本当になりたいものを言うのは恥ずかしい、誰かに否定されたり笑われたりするんじゃないか、そういう空気を読んで、勝手に世間一般の意見と思われるものを拾って、会社員や公務員というワードが出ているだけでしょう。そう考えると、こどもと接している大人の責任はとても大きいですね。こどもの夢を、笑ったり否定したり、お前なんかに出来るもんか、という空気を出してしまったり。。「ドリームキラー」というそうです。夢や希望を口にした人に対して、それを嘲笑したり、論破したりする文化。とってもとっても醜悪です。嘲笑、論破という、全く何も生み出さないものに時間や心を使う暇があったら、どうしたら夢や希望を実現できるのか、それを考えたり、考えるヒントを探したりする方が、よほど氣持ちが良いし、未来の可能性を広げることになるのに。。

少し話が逸れました。言いたいのは、「本心」だと思っているその心、本当の本当に「本心」なんですか?、ということです。私自身、40歳で妻と小学一年になる息子もいる時に会社員を辞める決断をしたわけですので、自分の心、過去から未来まで、考えて考えて、その上で行動してきたつもりです。しかしそれでも、自分を取り巻く環境によって、またその時の自分の心の向け方によって、いつの間にか「本心」を忘れて、目の前のやらなければならないことに心を向け、やらなければならないからやっていることを、これが自分のやりたいことだ、と塗り替えていたわけです。
40代の大人のおじさんでコレです。もっと若い方、ましてやこども達の本当の本音、本心なんて、本当に理解できているものでしょうか?

口に出した言葉が真実。そういう風に我々は捉えてしまいがちです。少なくとも、他人に対しては、言葉で言ったことを真実にしないと、「言ってることと違うじゃないか!」と腹を立てます。「言質(げんち)をとる」ことは、法律の世界では意味があることかもしれません。(それが証明できるのなら)しかし本当の「本心」って、なかなか見えてこないものではないでしょうか?目の前の現実が厳しければ厳しいほど、それに寄った言動をとらざるを得なくなり、それが自分のやりたいことだった、と後から塗り替えてしまっている。そんなことってないですか?

小さい頃、剣道の合宿先でお漏らしをしてしまい、それ以来剣道に通いたくない時期が続いたことがあります。「もう辞めたい」そう口にしていました。私の親は、行きたくなければ行かなくて良い、と稽古を休ませてくれていました。その後、どんなきっかけか分からないですが、いつの間にかまた稽古に行けるようになり、そのうちクラブの大会で3位入賞することが出来てから、急に剣道が楽しくなりました。友達にも恵まれるようになりました。それが中学生・高校生と続けることが出来て、剣道は私の人生の柱となり、支えとなるものになりました。
あの時、親から言葉責めにされ、「本当に辞めたいんだね?」とか「稽古を休むなら、月謝がもったいないよ」とか言われて、続けるか辞めるかを決断することを強いられていたら、私は「辞めたい」と言ったと思います。本当に辛かったはずなので。でも、私の感情の波が収まるのを待っていてくれた私の親に、とってもとっても感謝しております。こどもに対して、言葉や論理、理屈でスジが通るようにすることを求めるのは、正しいことなんでしょうか?本当の本心、本当に人生にとってプラスになること、正しいこと、そういうことって、大人でも実は分かっていなかったりすることですよね。

合氣道では、動かせない所は動かさず、そこは放っておいて動ける所から動く、という大原則があります。障害となることがあった時、すぐにそこを何とかしようとしても、0か100か、といった極端な選択しかなくなってしまいがちです。一旦それはそれで放っておいて、様子を見る、ひと呼吸置く。その上で、大きな流れがきちんと見定められるようになった時に、改めてその障害を見てみる。その時には、それは大した問題ではなくなって、本当のやるべきことに心を向けることが出来るようになっている。そういうことって多いような氣がします。

「本心」は、天地自然より与えられた人間本来の心、霊性心と切っても切れない関係にあるはずです。その人にとって、生きていくために本当はどうするのが正しいのか、本当はどうすることが一番良いのか。それはみんな「知っている」はずなんです。自分がそれを判断できる状態にあるのか、をまず確認する。そして、そういう心を、自分も相手も、本当は持っているのだ、という信念に基づいて話をする。そういうことが当たり前になっていけば、誰もが「本心」に基づいて生きていくことが出来る、そんな世の中になっていくのではないかな、と私は思います。そういう世界を作るために、社会に貢献できる自分になりたい。そんなところが、今の私が思っている自分の「本心」です。

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