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あのとき選べなかったもの

オトナミューズという雑誌にモデルの梨花さんの連載記事があります。
2018年9月号の記事がすごく印象に残っているので、そこから考えた事を書きます。

その記事で梨花さんは、雑誌の表紙の写真について話していました。
日本のファッション誌は年齢とジャンルで細かくカテゴライズされていて、表紙は求められるものに合わせていくものと考えていた彼女。しかし、ある日そのことにふと疑問を抱いたそうです。

オトナミューズの表紙としてはちょっと違うのかもね、という理由で表紙候補から外したある写真を、後から見てもやっぱり素敵だったと何度も思い返してしまうことがあって(中略)一番いいと思う写真を表紙にできないのはなんでだろう?って。でも、あのときはその写真を選びきれなかった自分がいたことも確かで
(『オトナミューズ』2018.8.28発行)

「あっ、わたしにもある。"あのとき"は選べなかったもの。」と、この記事を読んで思いました。

例えば、部屋のカーテン。10歳の時に引っ越しした際に自分の部屋のカーテンを選ぶ機会がありました。オレンジ色のカーテンと白色のカーテンで迷ったあげく、オレンジ色のカーテンにしました。大好きな従姉妹のお姉ちゃんの部屋を参考にして。
その後、何年かしてやっぱり白色のカーテンがいいな。と思ってとりかえました。

こういう事を思い出した時に考えることは、「あっち選んでおけばよかった!」という後悔とかではなく、あの時は未熟だったなとも思うこともなく、あの過去(の失敗)があったから今があるとかむりやり肯定しようとするのでもなく、
その時々の自分の感性をただただ懐かしんでいる感じです。

10年前はああいう服着てたな。
10年前はこんな雰囲気の人が好きだったな。

とか。同じ「わたし」なのに好みが違う。選ぶものが違う。「Aを選んだけど、やっぱりBが素敵でいいな」と思ったら素直にBにしてもいい。その時に一度はAを選んだことを否定する必要はない。どの選択もその時々の「わたし」がえらんだものはすごく懐かしく愛おしく思います。

一貫性がある方がなんだか筋が通っていて、かっこいいかもしれないけれど、
わたしが今「これがいい」と思える感性を大切にしていきたいです。
その結果全然一貫性がなくても他人からしたら意味不明でも、それでもいいなぁ。と思いました。

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