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生きること、亡くなること

実は長らく身内が闘病してまして、
つい最近緩和ケア病棟にうつったんです🙋

これまで関わってくれた先生方にはもちろん感謝しつつも、このフェーズなので。
やっぱり緩和ケアの先生の症状緩和というか、薬剤選択とかね🥹💦身内にとっても家族にとっても緩和ケア病棟でしっかり痛みも取れて表情も良くなったし、ありがたい日々っす☺️

ちなみに雪花の親族には医療者が私と弟だけです😌身内がこーゆー時期なので、最近親族でも色々話します🧐
そうするとね、色々考える訳で🧐
気づいたこともあるわけで🧐
文字にして自分でも整理しようとね💡

私は今はICUだけど以前は終末期の方が多い病棟にもいたから。
良くも悪くも、医療者でない人(今回なら親族ね💡)と比べたら圧倒的に…
日頃から、亡くなることと同じくらいに、生きることを考えていて。
生きることと同じくらい、亡くなることも身近なことだと思っている自分に最近改めて気付いたのね😟

日常生活でも度々ね、思うわけですよ。
「あー、今日は天気めっちゃいいなぁ。こんな空を患者さんにも元気になってみてほしいなぁ」とか「◯さんは、状態悪くなってきちゃってるし、もうこの空を見上げられないかもなぁ😔自分には何ができるだろうなー」とか。
亡くなる患者さんのご家族が今何を求めてるかなーとか。これまでの人生どうだったかなーとか。色々生きているから振り返るし、亡くなる方が身近にいるから自分のことも患者さんのこともご家族のこともよく考える🤔

けども…
医療者でない親族たちにとって、
生きることは日常。
生きることに頓着しなくても時間は流れて
日常が過ぎていって生きている。

身内が年単位で闘病はしていたけれど、
亡くなることは想像もしてなくて、
大切な身内が亡くなることを考える時間はこれまでにほぼなくて、でも自分が亡くなる時は苦しくなく逝きたいなって考えてるのに、
やっぱり大切な身内が亡くなることは
圧倒的非日常で、不安要素で、不安定な要因で、先が分からなくて怖いことなんだよねー。

ってゆぅ、
亡くなることは悲しいことなんだから当たり前じゃん!!てな話なんだけど。

私は年単位で闘病する身内と関わってきて、生きる姿を認めつつ、最期どうしたいかなー、何をしたいかなー、何が嫌かなーてずっと考えていたように思う☹️

でも親族たちはそうじゃなかったのねー💦と。改めて実感💦💦
いつか亡くなってしまうというのは人間誰だって同じ話なんだけけど。
いつかのいつかは、訪れない未来的な扱いになってた😞

それでも親族にとって唯一の医療者は私だから情報のニードも高かったりするから🧐

逝ってしまうまでにあとどれくらいだろう?
とか
緩和ケアうつったからもう無理か
とかね。

そりゃ緩和ケア病棟にはいるけど、
場所が変わっただけで大切な身内だから何も変わらんと思っちゃう私もいて🥺

でもそれは私だけが年単位で心算してたから、そう思えるんだろうなぁーとかね😞

死の受容って、ほんと簡単にできるもんじゃないと思うのね。
ちなみに、私は日頃医療者として患者家族と関わる際に「家族がまだ死を受容できてない」て言う看護師にはなりたくないと思ってて。
「まだ」って何?!ってゆー
受容できるとでも思ってるんかい?ってゆー。

いつまでいったって
どんだけ時間かけたって
大切な人がいなくなる現実を受け止めるなんて辛いよね。

そうするとさ、
悲しいから、今度は悲しむのではなくて逃避や怒りにシフトする親族も出てくるのね😞

メンタル辛いから早く逝っちゃえばいい
とか
いつまでこのいつ逝くか分からん状況なの?
とかね😞
それとか
自分はこうなってまで生きてたくないな
やら
自分はこうやってみんなに会いにきてもらって逝きたい
とか

もはや当人を越えて自分の生き死にを考え出すのはあるあるなんかな💦???

多分、そうやって色々逃避したり考えたりすることで無意識にストレス回避してるんだよね💦

こーゆーとき
なんて言ったらいいやら雪花困っちゃう😇💦

まぁ、そんな訳で
文字にしてみたけど整理もできず笑笑

でもこれも今の私の気持ちなんだわな💡
全く結論も出ず支離滅裂文書だけど、また後日読んでみよーそしたら何かが変わるかもしれないしね💡


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