実は恋愛ゲームだったかもしれないエヴァ【エヴァ考察#02】
今日はひっそりアニメ語り。
ゆうTO3です。
今回は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開も間近なエヴァンゲリオンを考察してみます。
どこまででも深読みできるし、深みに嵌まってしまう要素もあるエヴァ。
しかし、「マルチエンディングの恋愛ゲーム」と考えると、また違った面も見えてくるのではないでしょうか?
この邪道な観点で『エヴァンゲリオン』という作品を考えてみます。
★★★★★
TVシリーズと、その延長線上にある旧劇場版。
そして、
新劇場版では展開や細部の設定が異なるのはご存知の通り。
そして、
TVシリーズおよび旧劇場版は、惣流・アスカ・ラングレーがヒロインである『アスカルート』なのである!
主人公シンジは最初、綾波レイに惹かれる描写もあるが、レイに対して神秘的な物に触れるときのような、畏怖も含めた憧れである。
レイは一種の偶像であり、二人の距離はヤシマ作戦で縮まっても、そこからあまり進展しない。
一方でアスカに対しては、シンジは序盤から「同年代の少女」として意識しており、心の距離も『瞬間、心、重ねて』のエピソードを中心として、どんどん近付いていく。
シンジが初めて『性』を意識した相手もアスカであり、本人の自覚はあまり無いが『恋』を意識した相手もアスカだったと思われる。
この点から考えると旧劇場版の展開も納得がいく部分は多い。
物議を醸したラストのアスカの台詞「気持ち悪い」も、『ある意味では世界よりも自分(アスカ)を選んだにも関わらず、それでも煮え切らない行動を取るシンジに対する生理的な嫌悪感』から出た台詞と考えると少し納得ができる。
エヴァンゲリオンをシンジを主人公としたマルチエンディングの恋愛ゲームと考えたとき、
ヒロイン候補はアスカの他にレイだけでなく、ミサトもいる。
え? 犯罪スレスレ?(シンジは14歳)
まぁ、この辺はTVシリーズや旧劇場版でも示唆されているのでいいんでない?
さて、TVシリーズと旧劇場版がアスカルートなら、新劇場版の『序』と『破』は、
綾波レイがヒロインの『レイルート』なのである!
これについては正直、異論は無いのではないだろうか?
『序』で絆を作り、『破』ではレイを助けるために、世界や自分を省みない行動にシンジは出ている。
そのせいで世界はとんでもないことになるのだが、ある意味文字通り「世界がどうなろうと君だけは助ける!」心理なのである。
こう考えると『Q』の展開はあんまりだが、多くの人が考察しているが、実は『Q』と『破』の世界線は別なんではないかと思う。
『シン・エヴァンゲリオン』公開前なので、これ以上の考察は無理があるが、それを承知でやってみる。
(この先はほぼ妄想だ)
新劇場版の
『Q』と『シン・エヴァンゲリオン』は
渚カヲルがヒロインの『カオルルート』であり、かつ『シン・エヴァンゲリオン』はすべてのルートの要素を内包した統合ルートである。
新劇場版に出てくる渚カヲルは、ヒロインの一人でかつ登場人物でありながら、他の『アスカルート』『レイルート』の展開を知っているチートキャラである。
どんなルートのエンディングでも結局幸せになりきれない主人公のシンジを、
『今度こそ君だけは幸せに』しようと、虚構の物語の中でもがき続ける異色のヒロインなのである。
だから、
『シン・エヴァンゲリオン』は、渚カヲルが『エヴァンゲリオン』という虚構を破壊する物語であり、
大人になりきれないまま『エヴァンゲリオン』という無限ループのゲームに囚われ続ける『シンジ』を解放する物語になるのではないか?
つまり、シン・エヴァンゲリオンのヒロインはシンジでもあり、『シンジルート』となるのではないか?
こんな風に、各ルートのヒロインを考えると、
難しいギミックと伏線(めいたもの)に彩られた話もシンプルに見えてくる。
人類補完計画なんて、設定の一つに過ぎないのだ。
別に深いこと考える必要はない。
重要なのはシンジがどのヒロインと幸せになるのか?
でも、誰とも無理だったので、シンジ自身がヒロインになり、幸せになるしかない。
この観点で捉えると、TVシリーズの第26話がわけわからん自己啓発ではなく、『物語の本線』だったと理解できるはずだ。
だから、
シン・エヴァンゲリオンは
ヒロインのシンジを幸せにするために、
TV版の26話を別角度で回収する話となる。
でもたぶん解りやすくはならないし、すっきりもしない。
それも含めて、
さらば、全てのエヴァンゲリオン。
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