献花

ガーベラを1輪買った。友人の大切な人の、命日。

毎年献花できているわけではない。慌ただしくしていてうっかりしていたこともあったし、ちょうどいい1輪咲きの花が見つからずに黙祷だけの年もあった。ただ、なんとなく今年は必ず行きたいと思っていたから、ガーベラを花屋の店頭に見つけると、そのかわいらしい花を迷うことなく手にした。
亡くなった人に手向ける花に、ガーベラが適切なのかを知らない。だけど、何もしないよりはいいだろうという自分なりの答えを握りしめて離さない私は、ちょうどいい花を見つけてすぐにレジに向かった。
店員は何も聞かずごく自然に、茎の端にアルミホイルを巻き、きれいな包装紙に包もうとした。「簡単な包装でいい、袋もいらない」ことを伝えると、店員は1枚の茶紙でくるくると花を包み、そこに「付けておきますね」とテープで小袋を貼り付けた。切り花用の長持ち剤だった。

そのままその脚で海にいくつもりだった。この友人の大切な人に向ける献花は、海と決めている。

ある冬のクリスマスが終わった頃。
私はリー・ミンウェイというアーティストの個展を観ていた。彼は観る人の参加が必要な形の作品、プロジェクトを作るリレーショナル・アートの作家で、形には残らないが人を想うきっかけをくれる作品を作る。
その個展の展示作品の1つとして、展示室の長い台の上にガーベラが何本も生けられていた。解説を読むと「このガーベラを自由にお持ち帰りください。ただし、帰り道で、このガーベラをあなたの知らない人にプレゼントしてください」ということだった。人と人とを繋ごうとする、彼らしい作品だった。
知りもしない人にプレゼントするなんて、人に道を訊くことも諦めてしまうような私には向かないと思ったが、おもしろそうなので1輪とることにした。濃いピンク、黄色、赤、白、さまざまな色が並んでいた。私が選んだのは、白に見えるくらい淡いピンクのガーベラだった。

その展覧会を見ている途中、LINEが入った。バイト先で仲良くなった友人からだった。映画の約束をしていたのでその件かと思いきや、深刻なメッセージ。友人の大切な人の訃報だった。それが突然の死で、友人がとても傷つき落ち込んでいるとわかった。二人は将来について考えていてもおかしくない年齢だった。死因は今でも訊けていない。

かける言葉もなかった。展覧会の帰り道、黒い鏡になった電車の窓ガラスには、会ったこともない友人の大切な人へ想いを馳せる自分と、1輪のガーベラが映っていた。
「このガーベラをあなたの知らない人にプレゼントしてください」。ふと、この条件を満たせるのではないかと思った。
この花を、友人の大切な人に届けることにした。それが自分に思いついたせめてもの行為だった。でも、どこに行ったらいいのかがわからなかった。少し考えて、海に行くことにした。

私が訃報を知る数日前。亡くなって十日ほど経った頃の、まったく別の話。
海にほど近い商業施設で、私は不思議な経験をしていた。カフェの席に座って人の行き交いをぼんやり眺めていた時。テンポよく歩いてきたあるひとりの男性が、柱の影に入った途端に消えた。付近には交差するエスカレーターしかなく、その道は通過するしかない場所だった。それなのに、彼はいつまで経っても柱の影から現れなかった。
見間違いだったのかもしれないが、そんな見間違いをするのは初めてだった。

そんなまったく関係ない、記憶に引っかかっていた出来事と合わさって、「友人の大切な人の魂が、まだ近くにいるのではないか?」という仮説に根拠のない自信を持ち始めた私は、海にガーベラを献花しに行った。

それが、もう何年も昔の話。

そして今度は、長持ち剤が添付されたガーベラを手にして、海に行こうとしていた。
お花を思う店員からしたら、少しでも長く綺麗に咲いててほしいだろう。そんな花を、私は献花という儀式のもとに冷たい風が強く吹く夜の海に置き去りにしようとしていた。

献花という行為は、形を変えた生贄なのではと思った。生きるものを死者のために……手に持っているガーベラの花は、そんな末路も知らずに私を見上げて揺れていた。

涙が止まらなくなった。生ける花を手向けられた死者はどう思うのだろうか。私はこの花に、彼の分も生きてほしいと思った。その方が喜んでもらえるのではないかと思った。命とは何だろうか。そんな感傷に浸っている自分が腹立たしくもあった。献花に向かう勇気が出ないまま、命日をとっくに過ぎていた。

ガーベラは空きビンに水を差して生けた。仕事に行ってる時は真っ暗なところにひとりでは可哀そうだから、窓際に陽が当たるように置いた。帰ってくると寒かろうとテーブルに移した。
そんな日々が続くと妙に愛着がわいて、つっついたり、話しかけたりした。つやのある花弁は触れるとひやりとして心地が良く、何も返事はないが揺れているのがかわいい。花はすぐ枯らしてしまう私だが、日光浴させたり長持ち剤を使ったりしたおかげで、このガーベラは2週間以上咲いてくれた。
このまま枯れるまで家に飾っていようとも考えたが、大輪より先に赤茶に変色していく茎を見て、花が綺麗なまま終わらせてもいいかもしれないと思った。

献花のためにここにガーベラがいるのだと本来の目的を思い出すと、脚は自然と海に向かった。ただし、花が大好きな陽を浴びられるように、夜明けの海に。

朝の空は黄金色に輝いていて、冷たく張り詰めた空気ごしにその熱を伝えてきた。とても綺麗だと思った。防波堤を越えて水際まで行くと、地球を満たす海の端っこが待っていた。ゆらゆら揺れる水面に花を任せ、手を合わせた。

人の死で文章を書くことに抵抗がある。それも、”ちょっといい話”かのように語ることになってしまうということに。人が亡くなっているのだからまったく良い話ではない。こんな日記は誰のためでもなく、自分の想いの浄化にしかならない。
今でも、どうして彼だったのだろうと思う。なにも、幸せであってほしい友人から大切な人を奪うことなかったじゃないかと、理不尽に思う。何度手を合わせてもそう思う。だけど、その事実の先で人が生きていかなければいけないから、偶然の重なりで、悲しまれる死と、作品と、ガーベラと私が結びついた。そのことだけ、書いておきたいと思った。


最後に。私はあなたの死を直接知らないけれど、こうやって想いに区切りを付けて生きていくことを許してください。ご冥福をお祈りします。そして、あなたの大切な人をずっと護ってあげてください。


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