援助交際をした自分をきちんと気にすること。気にしないこと。
わたしは、18歳の時に援助交際をしました。
それはわたしにとって「幸せな恋愛も、結婚もしない人になる」ための儀式のようなもので、終えてから「これでよし」という感じでいたものです。自分から大学に入学して、とても解放的で、人と人とがつながることに積極的なこの雰囲気に合わせて軽やかになってしまうことを避けて、自分からしました。
わたしは、援助交際をしたことは
自分なりの正しい理由でやっていたので、「気にしていなかった」けれど
、その自分の持っている正しさを疑うようにいつも接してくれています。
メンタルトレーナーは、「やったこと」はみていなくて、
「どうして、そうしたのか」だけをみています。
その「どうして」が、
自分や人を幸せにするものなのか、
自分らしく生きるために必要な理由であり、
自分らしさを尊重する考え方なのかをいつもみて、
修正をしてくれるのです。
わたしは「不幸になること」が正しいと思っていたので、
援助交際をしたことで、しっかり自分の価値を下げて、
軽蔑をされたり、不快感を持たれたりすることをいつも期待していたので、
まったくの期待外れだったので、戸惑いました。
援助交際をしたことで、軽蔑をされて、馬鹿にされて、呆れられて、
屈辱的な思いをして、わたしはがっかりする、人生を悲観して過ごす、、
というものがわたしにとって「必要なもの、欲しいもの」だったのですが、
そうした「わたしが欲しいもの」は一切与えられず、
ただただ「どうして、したのか」「どうしてしたのか、自分に問え」と伝え、自分と繋がることを促してくれます。
子どもの幸せな恋愛や結婚は、
親にとって、とても嬉しいことだから、
それを遠ざけたのは、親への復讐だったのじゃないか。
援助交際をしてまで、幸せな恋愛や結婚を遠ざけてまで、
親にわかって欲しいことはなんだったのか。
援助交際って、ふつうはお金のためにするんだけれど、
あなたは、お金のためではないわけでしょう?
そうまでした自分のことをあなたは放置しているけれど、
あなたは自分で自分を理解して受け入れる必要があるのだ、
と伝えてくれるのです。
わたしにとっては「そうまでした」ことではなくて
「不幸になることは大事なこと」だったので
気にすることができなかったし、
一方で、「絶対に不幸になる」ことは悲観して
落ち込んだり気にしていたりしたので、
「自分が何をしているのか」をきちんと気にすること、
やったことそのものを、気にしても仕方がないことが
段々とわかるようになってきました。
そして、あえて軽蔑をしたり、馬鹿にしたり、見下したりするような言動をとってくれて、わたしに屈辱的な気もちを味わわせてくれときにもありました。
わたしが欲しくて価値があると感じていたものを与えてくれ、
あなたが欲しいものはこれでしょう?
ほんとうに、そんなものが欲しいのか。
そんなものに価値を感じている人生を続けたいのか。
と、感じ直させてくれるのです。
「不幸になっている」自分のことはよくみているけれど、
「不幸を選んでいる」自分のことをわたしは
みられていませんでした。
自分との接し方や
自分にとってあたり前になりすぎて
みえなくなっていたもの
何度も何度も伝えていただき、みせていただました。
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