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れいゆ大學④④ (YHWH÷キリスト)×a=(ブラフマン+アートマン)


エルサレムから30キロほど、キルベット・カイアファ遺跡において、5cmほどの小さな粘土の像が発掘された。イスラエル・ヘブライ大学のヨセフ・ガーフィンケル教授は、これをYHWHが馬に乗っている像の一部であると解説する。

この発掘は、YHWHを乗りこようとしてきた私にとって、グッド・ニュースだ。
YHWHは、数多ある神話の神々のように、馬に乗っている。しかも、可愛い感じで描かれている。

「ジーザス・クライスト・スーパースター」「最後の誘惑」「モンティ・パイソン ライフ・オブ・ブライアン」などの映画、「ダ・ヴィンチ・コード」などの著作物、あるいはさまざまなコメディや思想体系によってイエス・キリストは批評されてきたが、YHWHは姿がないので表現しにくい。最近ではYHWHは、ジョーダン・ピールの映画「NOPE」でUFOに喩えられた。

ユダヤ教およびそこから派生したアブラハムの宗教が崇拝する唯一神、YHWH。モーゼの十戒の折、それまでの古代宗教と区別するため、そして国を追われたイスラエル人を束ねるため、YHWHの偶像崇拝は禁じられた。
しかし、実際には像をつくってしまった人がいたのである。それが人情というものだ。これはキリスト教が権威のために偶像崇拝に向かっていったこととは内容がまるで違う。


"信楽だぬきは腹の中にキリストの聖杯を隠している"


聖書の神YHWHは、恐ろしい。

YHWHは「存在する」というシンプルな意味である。だがそれは「私は存在する」という意味でもあり、これではほかの神話の最高神と同様、主観が存在する。
仏教もユダヤ教も、それ以前の多神教を基盤に生まれた。しかし、仏教は無我によって神を超えたが、ユダヤ教は神は唯一であるとするのが限界だったのである。

YHWHこそが歴代の最高神の中で最も、人類を試し、妬み、怒り、滅ぼしてきた。自らの分身として人類を造り、それ以降、失楽園、ノアの方舟、ソドムとゴモラ、モーゼの十戒と、知恵をつけ秩序が乱れた人類の倫理観に怒り、滅ぼし続ける。または、カインとアベルでは殺人を起こさせ、アブラハムとイサクでは人間を生贄にさせようとする。

ユダヤ教徒もキリスト教徒も、YHWHという名を忌避する。通常は呼ぶことも書くこともせず、日本ではほぼ言わないが、アドナイという呼称もある。これは「主人」という意味である。だから日本では聖書を翻訳した際、「神」のほかに、「主」という表現をし、またそれは「父」とも記載される。

YHWHは、キャラクター化されていないにも関わらず、しばしばギリシャ神話のゼウスと混同されたような白い長髪の筋肉質の男性の姿で描かれもする。

女神は宗教につきものだが、ユダヤ教に女神はいないどころか社会的にも男尊女卑である。YHWHは絶対君主的な父であり、しかも姿を見せず、プロフィールが示されないことにより、より権力者の雰囲気がある。だから、キリスト教カトリックの聖母マリアマグダラのマリアはイエスとは繋がっているが、YHWHとはあまりネットワークが成立していない。


仏教につらなるヒンドゥー教などのヴェーダの宗教では、宇宙の根本原理そのものがブラフマン、自我がアートマンとされる。個人主義が台頭し尽くしたあとの現代に生きていると、宇宙と自我はまるで逆のものに考えがちだが、多くの仏教宗派ではこれらが同一であると説かれる。

ところがアブラハムの宗教においては、YHWHは徹底的に正しく、人類は間違っている存在である。キリストの臨在においても、良い行いをしている者だけが救われるとされている。
神を擬人化していない初期設定が、神(宇宙)と人類(自我)を区別する作用を働かせているのだ。

ひとつの物質や個人の中に裏表の要素があるという二元論は本質的だが、YHWHにおいては二分法のあり方自体が異なるので、善人が救われ悪人は救われないという選民思想的な感覚に陥っている。その思考停止が信仰として機能してきた面が強い。
仏教のお地蔵さん、観音様、不動明王などは、人類を救済するために現れているのに、YHWHはというと人類を戒めようとする。実際、ユダヤの律法に反したイエスは磔にされてしまった。


"日本橋の芸者マグダラのマリアが、皇居のお堀で、さかなを釣る"


イエスは、ユダヤ教にアンチテーゼを唱えた革命者だった。しかしそのイエスも、当時のユダヤ教社会においてはYHWHを踏まえる必要があり、預言されていたYHWHの子を称するという限界があった。ましてやローマ帝国が君臨しているという二重の管理社会である。
ユダヤ教の男尊女卑的な部分を批判した、女性的もしくは両性具有的な魂の持ち主であるイエスの父が、人類を監視し試し続けるYHWHであるということの奇妙さが、水分の少ないゴーゴーカレーのように重々しく新約聖書に横たわる。

世界は、このYHWHを神とするユダヤ教が潜在的に力を放ち、キリスト教が物理的に布教支配をした。
実際に信徒であるかの話ではなく、あらゆる場所でYHWHを由来とする価値観は現れており、最も影響力の強いものとして、モーゼの十戒をベースにアメリカ法は作られ、そのアメリカの理想として日本国憲法は作られた。
ムラ的な疎外や差別も、政府や自治体や警察が考える秩序、芸能人の不倫や恋愛へのバッシング、それらすべてYHWHに端を発するのではないか。
それら社会の動きすべてをYHWHのもとで管理されるのなら、ユダヤ教もキリスト教も良しとするのかもしれないが、すでにYHWHのもとを離れ、そしてYHWHは別の形に変貌し続け、増殖される。

明治の頃にスコットランドから日本を訪れた宣教師ニコラス・マクラウドが「日ユ同祖論」を提唱した。
2000年以上昔のイスラエル氏族の渡来人の物語で、信じる向きと信じない向きとがあるだろうが、それとは別の歴史軸の近代においても、やはりYHWHは日本社会に政治経済や社会構造などにおいて根を下ろしているのだ。それは蕎麦屋、定食屋、スーパー、100円ショップに至るまでである。
透明かつ厳格な性格という矛盾が、世界を覆う錯覚を起こす。


タレントが不倫をするとなぜ咎められるのか。それが女性タレントだと世間の声はより大きくなる。これは明らかに、モーゼの十戒の7条「姦淫の罪」に該当する。

日本の屋外では、音楽や演劇などの芸能活動や政治演説を無断ですることは、厳密には違法となっている。東京では2002年の石原都政の折に、路上実演のライセンス制度が施行された。ギリヤーク尼ヶ崎のよう本物の芸人は、このような役所の審査が必要であるという価値観に抗い、この資格を持っていない。
このライセンスの名前が、なんとヘブンアーティストなのである。法華経の新興教団「霊友会」の信者である石原慎太郎なのにヘブン(天国)とは違和感があるが、YHWHが世界秩序をつくっていると考えれば、天国というネーミングには納得である。
つまり、管理された天国だ。無許可で文化を持つのは、知恵の実を食べてエデンの園を追放されることと同じなのだ。
逆に言えば、東京都庁の許可がありさえすれば、「バニラ高収入」の宣伝カーも許されるのである。


ほかの神話とは違い、何者なのかという設定を最初に持たなかったゆえのYHWHの遍在的君臨によって、もはやYHWHは秩序なのか無秩序なのかもわからない。
その象徴的事象として、パレスティナの戦争においてYHWHは少なくとも3つ以上に分裂している。


"雨の夕暮れ、商店街の稲荷神社に、古い聖書が落ちていた"

ともすればYHWHは、石原慎太郎や星一徹のような戦後日本の家父長である。
天皇は戦争責任が横たわりはするが、むしろ天皇は、自民党政権のもとで政治的な主張を封じられながら象徴となっている状態が十字架のキリストのようであり、大リーグボール養成ギプスを装着された星飛雄馬である。
三島由紀夫は天皇を愛し裏切るユダである。


大抵の宗教では、YHWHのように宇宙を造った最高神がいる。
古代インドの、ミトラとヴェーダ。ヴェーダの宗教の、宇宙の摂理ブラフマー。ゾロアスター教の、アフラ・マズダー。ギリシャ神話の、カオス。さらにブラフマーやアフラ・マズダーの娘がルーツとも言われる観世音菩薩。日本神話の造化三神、別天津神。

ゾロアスターのような多神教的価値観も微妙に含みつつ、一神教は誕生した。

YHWHの絶対的権威が倫理観を振りかざし、快楽や享楽を禁じれば禁じるほど、その反動で戦争は起き、カトリックの司祭は少年少女に性虐待をし、イスラム教国では同性愛者は死刑になり、ブルカを被らない女性は弾圧されてきた。キリスト教家庭における虐待の話は昔から無数にある。
虐待を受けて育った者は、性の逸脱によって運命を乗り越えようとしたり、リストカットをして生命を確かめようとしたり、あるいは喧嘩に明け暮れるようになる。

ならば恐ろしいYHWHの戒律が、世界を破壊しているともいえる。モラルによってモラルが壊れ、本質を見失う。

そうだ! そもそも知恵の実の木を、エデンの園に植えていたのは、「あなた」だ!!!


殺すこと、盗むこと、欺くことは、すべての宗教で禁じられている。しかし、性を否定し、厳格さを持ったのはユダヤ教である。
メソポタミア神話では、自由恋愛や同性愛や売春、変態的な性行為さえも、女神イナンナに捧げる良いものであった。
ゾロアスター教に至っては、重婚や近親婚が徳の高い善行とされていた。その場合の近親婚とは、親子や兄弟姉妹のあいだの最近親婚である。
YHWH登場以前は、人々は土着の生活の中で、神に捧げる芸能や芸術や性行為を尊んだ。

映画「ブルース・ブラザーズ」の主人公たちは、プロテスタントの孤児院で育った。彼らがシスターたちと一緒にいられないのは、聖歌と黒人音楽の融合であるゴスペルではなく、そこから逸脱した世俗的なブルーズやロックンロールやソウルミュージックを愛しているからだ。


古代の宗教であればあるほど、神話がメインである。それに対して、ユダヤ教以降の宗教は戒律をメインとした。
複雑な政治対立が中東地域に渦巻き続けているからだろうか。しかし、歴史が下るほど、宗教を上回る存在、すなわち国家が台頭する。国家や民族同士の諍いの中で、YHWHからの預言は行われた。

ゾロアスター教徒は現在もいるが、科学と照らし合わせつつ神話を信じているのだろう。しかし、ユダヤ教徒やキリスト教徒は聖書の物語を信じながら、同時に社会での争いをつくってしまう。文明が進んだ現在、宗教と現実がうまく接続していないことは、多くの人類にとって間接的だが重大な問題である。


日ユ同祖論の是非は別として、実際、日本神話は聖書に似ており、神社は神殿に、日本語はヘブライ語に似ていることは確かである。
とすると、厳格なYHWHによる一神教であるユダヤ教が、めくるめく多神教でありアニミズムとも連携する神道に変化したのならば、それはユダヤ教がユダヤ教以前のゾロアスター教的世界へ回帰したという現れである。

その展開を補完するのが、日本に根づく宗教である、神を超越した仏教だ。
仏教やその前提的基盤であるヒンドゥー教もまた、ユダヤ教と同じくゾロアスター教の影響を受けている。


"光は最初からあると言ったあの人は、観音様のような人でした"


仏教と神道が混ざり合っている日本に戦争がないことと、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教が聖地を共通するパレスティナが戦争がずっと続いてきたことに、世界の鍵が示されているように感じざるを得ない。
だが、そんな観念的なことを言えるのは私が冷暖房と平和憲法の下にいるからだろう。東京のくすんだ夜空では星空さえも貴重であり、ダビデの星どころか、見えるのはオリオン座や北極星くらいである。


水木しげるの漫画「悪魔くん」のアニメーションでは、主題歌はこう歌う。

エロイム エッサイム
エロイム エッサイム
さあ バランガ バランガ
僕らの悪魔くん

ヘブライ語で、エロイムは「神」、エッサイムはエルサレムと同じで「平和の町」の意味だ。しかし、「バランガ」は、フランスの魔術書グリモワールに記された悪魔召喚の呪文なのである。
神に悪魔はつきものならば、神は二元論の一方か、それとも二元論そのものか。

中世の魔女たちや、アレイスター・クロウリーなど、YHWHやカトリックへのアンチテーゼとして叛逆の魔術教団は生まれてきた。ジョン・レノンとオノ・ヨーコの理想にもまた、カトリックは異端と批判することしかできない。


キリスト教はイエスや聖霊の存在をもってしても、YHWHがある限りは、どこまでいっても二項対立の中にあり、その西洋的な制限の中で、イエスはいまだ血まみれで泣いている。
普通、キリスト教徒はイエスを「かわいそう」と思わない。罪を償ってくれたイエスに手を合わせる。
しかし、私は幼い頃からずっと、イエスは「かわいそう」だと思ってきたし、YHWHは「恐ろしい」と思ってきた。


「神は死んだ」と言ったフリードリヒ・ニーチェ以降、あらゆる論理はドーナツの穴のような虚無に帰還していく。そこに宇宙がある。

1983年、科学者ベンジャミン・リベットは、意思決定の0.35秒前にすでに脳活動が始められていることを証明し、自我は幻想であることを科学的に説いた。

ブッダによる無我の悟りが、利益を求めるための意味性を軽々と貫通していき、地球で最も著名な悲しみのアイコンであるキリストをも救済する。


私は数式を打ち立てる。

(YHWH÷キリスト)×a=(ブラフマン+アートマン)


これは、カトリックの幼児洗礼を受けた私が、教会に行かず、イエスに同情し、神社と仏像を愛好することの説明でもある。


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