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れいゆ大學④③ 世界は「建前」であり、その奥にあるのは「真実」か

イエスのパンは真実であり愛と言うが、実際には建前である。


モーゼの十戒
に端を発するようなユダヤ教の厳しい律法、とりわけ、「姦淫の罪」を咎められた女たちをイエスは庇った。だから、イエスはマグダラのマリアたちにモテたのである。ところが、敬虔なキリスト教徒たちは、イエスと逆のことを言う。性に奔放であることを罪とし、上から目線で赦しを語る。それはイエスを殺した権力および民衆そのものではないだろうか。しかし、その態度もまた建前である。

建前へのアンチテーゼとして建前を使ったイエスに、さらに建前を使っている人類の限界を、やはり建前と呼ぼう。

キリスト教側からの視点で考えると、ユダヤ教は未だ救世主が現れていない古い宗教ということになってしまうが、実際はユダヤ教のほうがキリスト教よりも自由ともいえる。ユダヤ教には、アブラハムの宗教における「神」とは何かという問題について考える余地が、ある意味では無限にあるのだ。キリスト教では、神と人間の中間に位置する神の子イエスの存在があるため、すでに神は完全に意味付けられてしまっている。イエスは神の建前として出現した。だが、ユダヤ教も建前だ。


当時の「姦淫の罪」が指し示す姦淫とは、売春や不倫や性暴力にとどまらず、婚姻前の自由恋愛も姦淫であった。そして、罰せられるのは女のほうのみだった。だから、路上で石を投げられている女をイエスは庇った。「罪のない者だけがこの女に石を投げなさい」と言うと、誰も石を投げるのをやめたというエピソードである。

このように性的なことや恋愛的なことにおいて、女だけが咎められるというのは、現代でもやんわりと続いてはいる。それは何故か。

アメリカ法はユダヤ教がベースであり、日本国憲法はアメリカの善人的建前としてつくられたからだ。3500年前のモーゼの十戒や律法は、いまだに世界を支配しているともいえるのである。建前による支配だ。

考えてみれば、モーゼが山の上から石板を持ってきて、祖国を追われたイスラエル人たちに神の言葉として見せたことも、いわば建前の世界だろう。モーゼ以前は、金色の象のオブジェをつくったり、太陽神に豊穣を願ったり、神殿に汚れを祓う巫女がいたりと、多神教という建前だった。そのほうが人間文化として自然なことだが、権力や土地を失った彼らをまとめるために、モーゼは神の言葉を預言し、人々は従った。そうして、一神教という建前が生まれたのである。


だが結局、イエスが磔になった像は製作され、カトリックでは偶像崇拝をするようになった。イエスの誕生日が、12月25日未明とされたのは太陽神ミトラの祝日にあやかっている。一神教における神の子として出現したイエスも、世界的権威となるには、結局は偶像をつくり、そして古来からの多神教世界と接続する必要があった。それはまさに建前の世界だ。

一神教と言っているのに、神の子であるということの矛盾は、三位一体という理論によって解説された。それもひとつの建前である。建前だからこそ、よく海外の映画などで神父や修道女が、「父と子と聖霊と」のポーズを素早くやるシーンが出てくる。あれが建前であることの証拠である。


建前は善悪関係ないもので、およそこの世のすべてが建前でできている。偽善者は「世界は愛でできている」と言うが、まるで愚かだ。世界は建前でできている。愛は、その建前をきっかけにした上での努力である。


戦前において、カフェーはたとえ女給と何かがあったとしても喫茶酒場だった。永井荷風が通った墨田区の玉の井の私娼窟は銘酒屋と呼ばれ、あくまで酒屋であるという名目だった。建前である。

戦後に売春防止法が施行されて以降は、ソープランドはお風呂屋さんにおいて偶然に従業員と自由恋愛になった状態である。ちょんの間は料亭において偶然に従業員と自由恋愛になった状態である。また、合法の風俗店に関してはすべて、セックスはしていないから売春ではないという理屈である。そのように、それぞれの建前によって、売春防止法をすり抜けている。

大麻取締も建前なら、大麻解禁も建前だ。なぜなら、そもそも、麻は地面から生えてくる植物だからである。

頂き女子のような人が取り締まりに合ったのは、「建前がないから」だ。裏と表のあいだに位置する彼女は、玄人でも素人でもないため、「詐欺」と定義された。もし彼女が個人営業ではなく夜の世界の店の従業員だったら、金を払った男のほうとしても「営業」の範疇と認識したのかもしれない。また、彼女を罰する社会こそが、建前でできている。人間社会は、じつに建前である。

日本国憲法では軍隊の放棄が明記されているのに、日本には自衛隊があり、在日米軍がある。自衛隊は日本軍ではなくあくまで自衛の軍隊であり、米軍は日本の戦力には該当しない組織であるという建前である。

原発は原爆とは違い、核の有効利用として稼働された。戦後に水爆実験の第五福竜丸事件やチェルノブイリ原発事故があっても、日本の場合は安全だという建前だった。だからこそ、福島原発事故によって建前が崩壊したとき、人々は自己が揺らぎ、コペルニクス的転回をせざるを得なかった。


建前は、良いことにも悪いことにも作用する。何かを動かすための強力な黒魔術のようである。

建前はときに馬鹿馬鹿しい。不必要なことを必要だと言う。客に労働を強いるQRコード、店員がいる前でのセルフレジ、東京メトロと都営地下鉄の乗り換え・・・。枚挙にいとまがない。

世界堂で売っているのは画材で、ユザワヤで売っているのは裁縫道具だ。ところが、どちらにも文房具は売っている。これも建前の世界ならではだ。


宇宙が開闢したのは神が「光あれ」と言ったからで、アダムとイブが知恵の実を食べ、聖母マリアは処女で妊娠し、モーゼが神の預言をイスラエル人に見せ、イエスが復活したのも、すべて建前である。建前は嘘ではなく、真実を押し通すための術である。「マグダラのマリアは娼婦である」というのも「マグダラのマリアは娼婦ではない」というのも、どちらも建前だ。


イエスは大工だった。イエスは家を建てる前に修行に出た。建てる前に神を論じた。すると、十字架を建てられてしまった。建てた前に磔にされてしまった。

そのように世界を構成する上級要素たる建前さえもすべて否定しきったのが、ブッダである。ブッダは、意識のすべてが妄想であると、悟りの結論を言う。


しかし、それではつまらないし、人間は不安なときに意味を求めるので、「物語」を好み、支えにする。それがほんとうかどうかではない。それをほんとうのことだと思っても、建前として思っている。だから、宗教は大抵の場合、建前である。

その建前が、すべての文化、文明、思想、おもひで、革命、蕎麦、うどん、日本酒、ドラえもん、くまのプーさん、東京タワーなどをつくった。


しかし、そのつくられた建前の世界自体も、もはや・・・つまらない。

あるのは、ついに、「真実」だけである。



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