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れいゆ大學④③ 世界は「建前」であり、その奥にあるのは「真実」か

イエスのパンは真実であり愛と言うが、実際には建前である。


モーゼの十戒
に端を発するようなユダヤ教の厳しい律法、とりわけ、「姦淫の罪」を咎められた女たちをイエスは庇った。だから、イエスはマグダラのマリアたちにモテたのである。ところが、敬虔なキリスト教徒たちは、イエスと逆のことを言う。性に奔放であることを罪とし、上から目線で赦しを語る。それはイエスを殺した権力および民衆そのものではないだろうか。しかし、その態度もまた建前である。

建前へのアンチテーゼとして建前を使ったイエスに、さらに建前を使っている人類の限界を、やはり建前と呼ぼう。

キリスト教側からの視点で考えると、ユダヤ教は未だ救世主が現れていない古い宗教ということになってしまうが、実際はユダヤ教のほうがキリスト教よりも自由ともいえる。ユダヤ教には、アブラハムの宗教における「神」とは何かという問題について考える余地が、ある意味では無限にあるのだ。キリスト教では、神と人間の中間に位置する神の子イエスの存在があるため、すでに神は完全に意味付けられてしまっている。イエスは神の建前として出現した。だが、ユダヤ教も建前だ。

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