「自分を理解しようとすること」と「しない」選択

※我流です。正しい方法は信用できる文献を参考にしてください。※

自分を理解したい。

そう思った時、自分は自分の考え方から価値観や本質を推測する。ではどう考え方を探るか?

他者とのコミュニケーションの方法と全く同じ方法を用いる。自分と、もう一人、客観視する自分’をおこう。
自分は言いたいことを述べ続ける。それに対して自分’が疑問に思ったことを問い詰める。

そうして問い詰めても答えられない問いが生まれるだろう。この問いを解くことこそが、自分を理解する第一歩だと考えている。しかしこの問いも後に別の問いに分解される可能性はある。

あなたがもし、病気のような問い(どうしても悲しい、どうしても片付けられないなど「どうしても」のようなこと)なら信用のある心理学や精神医学の文献をあたろう。自分が何かに当てはまったなら、病院に行ってそれを相談しよう。それは脳や心の問題である。いち早く。それが早い。まぁそれでも「どうしても悲しくなっちゃうのなんでなんだろう」と受け入れられないものだが。

そうではないなら、他者との会話や表現作品(小説や絵)、配信でもいい、あらゆるものに触れ合ってみよう。また、また出てくるが心理学の本からヒントを得てみよう。何かとっかかりが生まれるかもしれない。

さて、「そんなん知っとるわい!」みたいなことを述べてきたが、自分を理解「しない」選択があることも紹介しよう。

といううか、ほとんどの人が自分のことを理解してないと思う。「なんでこれがすきなんですか?」と問われて、詳細に答えられる人は多くないし、その後も別に考えないだろう。自分を、自我から勝手に表現を取り出す自動販売機だと思い込むのである。決して悪いことではない。これが普通である。

そしてこれは先ほど述べた、精神病のようなものにも当てはまる。壁に突き当たった時、「病気だから」で済ませることは初期ではとても大切なことだと考える。

自分のことを考えるだけで頭を使うし、しんどいし、僕は嫌になる。だから僕は、「自分のことを考えなくて済むような選択」を多くしている。
つまり、人や物との関係を多く切り捨てている。

おすすめはしないが、脳内で自分が何者かわからなくなって仕方がない人は、一度試してみたらどうだろうか。

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