さいきん感じていたこともろもろ。(の割に重め)
(noteの連続更新が途絶えそうで慌てて書いている。笑)
「どんなときにかわいいアイテムを選んじゃうんですか?」
mmmさんのアトリエで、調子に乗ってかわいいアイテムを選んで、似合わなくて、がっかりする、ということがあるという話をしていて、マメコさんにそう聞かれた。
私は「どんなときに、というより、かわいいアイテムを買うという行動がしたくなるんですよね」と答えた。
たぶん、少し歯切れは悪かったように思う。
答えはわからないけど、何かを誤魔化してた。
今日、あきやさんの講演会を運転しながら聞いて、キーワード分けの分類を頭の中でもう一度していて“かわいい”は“好き”だし“なりたい”だよなあ、と仕分けた。(私は“なりたい”と“好き”が今は近いと状態だと思っていた)
でも、なんのためにかわいくなりたいんだろう?
ふと思った。
なんだか開けてはいけないはずの箱が開いた。
私、愛されるためにかわいくなりたいんだ。
言葉にするとめちゃくちゃ恥ずかしいけど、これはたぶん本音だ。
今まで見ないようにしてきたけど、気づかないようにしてきたけど、私は愛されたいんだと思う。この本音に蓋をしてきたのは、客観的には愛されていない事実がないからだと思う。(例えばネグレクトを受けていた、元彼にひどい目に遭わされた、とか)もしかしたらこのこと自体が認知の歪みかもしれないんだけど、現時点ではそう思っている。
愛されたいことと愛されていないことはイコールではなくて、愛されていても本人比で足りていなければ、愛されたいという欲望は生まれるのだと思う。
そして、私は誰から愛されたいか知っている。
「神様」なんて誤魔化しているけれど、私が愛されたいのは“私自身”なのだ。
誰から愛されても、私が私を愛さないかぎり、この望みは続く。
私は私を愛していない。精神的にめちゃくちゃ虐めている。
ふつうに穏やかな日々が続くほど、過去の嫌なことをわざと思い出したり、有り得ないほどネガティブな妄想をする。これはある意味自傷行為なのでは?と気づいてからは、そういうことをしそうになったときに不安な気持ちを紙に書き出したり、深呼吸をして、心を落ち着けられるようになってきた。今までは不安な気持ちに飲み込まれていた。
他人軸な“愛されたい”という不安定な気持ちがあると、世間一般で“かわいい”と言われているようなアイテムを選びたくなってしまう。こういったアイテムは悲しいことに私には似合わないので“かわいい”私にはなれない。
これは、私がnoteに書いた私が思う“かわいい”だ。
私が自分軸で選ぶ“かわいい”アイテムは、ありがたいことに私に似合う。
自問自答ファッションを始めて、試着を必ずするようになったので、アイテムだけを見て選ぶことは無くなったので、がっかりするようなものを選ぶことはなくなったけど、どうしてそういうアイテムを選んでしまう癖があるのか、ということは言語化できてなかったのでスッキリした。mmmの茉莉華さんには“愉快”なアイテムを選べばいい、と言われたのもこれからの買い物のヒントになった。
私が思う“かわいい”は目指すけど、他人軸だったり世間一般の“かわいい”は大好きだけど目指さない。自分の愛し方については、少しずついろんな知識を手に入れて少し長期的に考えていきたいところ。(“ご自愛”がテーマのアイシナモロールにハマったのもなんだか納得する流れ。)少しずつ堂々巡りから抜け出せてるような気がする。
そして、“かわいい”問題が一段落したら、“きれい”と向き合う時が来たような気がしている。2年前に受けた自問自答ファッション講座のときから一貫して自分とは別世界のキーワードだと思って欄外にしていたんだけど、それも自分の気持ちに蓋をしていた可能性がある。こちらの蓋も今日ちょっと開いたんだけど、もうちょっと咀嚼しようと思う。
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