見出し画像

目的とケミカルプロセス



1章 目的の理由

何かを探し求めている。

 「なぜこんなにも苦しいのか。」日本における精神疾患の患者数が400万人を超えた現代とはいえ、そのような問いを持ったことのある方ばかりでは無いかもしれませんが、いずれにせよ、「なぜ苦しいのか。」「なぜ痛いのか。」「なぜ楽しいのか。」「なぜ欲するのか。」のように感覚や感情、欲望などを感じることに対する問いは、無意識的には誰でも思ったことがあるのではないでしょうか。その種類を問わず、「何かを感じる。」ということはなぜ存在するのでしょうか。 この問いについて考える上で、使うことのできる分析法として、タスクや欲望の根源を洗い出す“プロジェクトの上位分析”というものがあります。これは元々、価値観を掘り下げるためのタスクとしてケンブリッジ大学のブライアン・リトル氏が考案したPPAという自己分析法の中のステップの一つとして紹介されたものです。 やり方は簡単で、タスクや欲望に対して、「その目的は?」や「なぜ?」という問いを投げかけていき、その答えを図1のように上に記載することで、欲望の理由、つまりより根源的な欲望を洗い出すための手法です。

図1:PPAにおける上位分析の例 図2:痛みの上位分析

ちなみに、本書ではこれらの図を”上下関係の図”と表現します。
本来は自分が大切にしているタスクを洗い出してから使うものですが、今回は関係ないのでそれは気にしません。では、具体的にやってみましょう(図2)。とりあえず、感覚の種類の中から今回は痛みの原因について考えます。タスクとして入れる際には、動きや欲望の形にする必要があるため、今回は「痛いから避けたい。痛みから逃げたい。」というところがから始めてみましょう。
「なぜ、避けたいのか?」⇨「避けたいもんは避けたい。理由はない。痛みは避けたい。そういうものだ。」
一瞬で終わってしまいました。ここで何がわかるかというと、痛みが根幹的な判断基準であり、現実世界の無限に続く論理を有限化し、行動を起こすための材料になっているという点です。“論理の有限化”という言葉はあまり聞きなれないかもしれませんが、そんなに難しい話ではありません。例えば、論理をつなげていこうと思うと、「りんごは赤い。」⇨「赤は血を連想させる。」⇨「血は怖い。」など、論理は無限に続いていきます。人間で言えば、論理は観測・認識がずっと続いていく状態です。しかし、時系列的な文脈の中で、「痛いなら、それはもう痛くならないために動かないといけない。」という風に、一瞬で行動に向けて論理が有限化されます。これを論理の有限化と表現します。このように、「痛み」によって人間が恣意的に行動するためのコンテクストの有限化が起きていることがわかります。そしてここで重要なことは、「痛いことは避けたい。」ということが、むしろそういう定義とすら見えてしまうことです。ケミカルプロセス的に痛いことに理由をつけることはできますが、なぜ避けたいかと問われれば、それは単純に痛いからです。ほとんどの事柄は、上位分析においてさらに上に欲望や目的があることを考えると、有限化は定義として置かるかのようにすら思えてきます。つまり、「痛いから避けたい」だけでなく、「避けたいから痛い」のではないかとすら思えてきます。他の例で考えてみましょう。図1の「ダイエットの例」で考えてみると、より上に大きな判断基準が見えてくることがわかります。

図1:ダイエットの上位分析

つまり、上に目的があるということは、その下は必ずしもそのタスクでなくても良い場合もありますし、その判断基準を最上位としてみたときほどの優先度はないです。例えば、図1の例であれば、ダイエットをしなくても彼女を作る方法はあるかもしれませんし、それ以外にダイエットする理由がないのであれば他の方法で手段を代替してより上位の欲望・目的(彼女がほしい。)を果たすことができます。しかし、痛みで最上位が決まっている場合は、それ自体が目的になります。代替手段ではダメなわけです。つまり、痛みを避けることはそれ自体が目的であるため、痛みを避ける以外の行動で目的を果たすことができません。そして手段は最上位の目的によって決まります。 では今度は、上方向への分析ではなく、下方向への分析をしてみましょう。分析法の名前はプロジェクトの下位分析で、こちらも先ほど紹介したPPAの一環として行われるものです。タスクに対して、「そのためには?」という問いをひたすら投げかけることで、自分が今やるべきタスクを徹底的に具体化するためのタスクです。よく、「できるかできないかを考えるのではなく、どうやったらできるのかを考えると手が動く。」と言いますが、それに近いかもしれません。では、やってみましょう(図3)。

図3:痛みの下位分析


具体的にやってみると、全てのタスクは、上下の距離が空いていくほど、論理的つながりがわかりにくくなる一方で、全ては最上位の目的のために存在することがわかります。逆に言えば、図においてかなり下の方の例としては、「電気信号が神経系を伝って…」みたいになるかもしれません。 さて、いまいち納得がいきません。そもそも我々は、痛みの根源的な理由について知りたいというところから始まりました。原因を知りたいのに「避けたいもんは避けたい。」で有限化されてしまっては、普通に困るわけです。そこで、一旦視点を変えてみましょう。そもそもプロジェクトの上位分析には自分のタスクや欲望を入れるのが普通ですが、例えば痛みについて冷静に考えてみると、我々は自分が痛くなりたいからなっているわけではありません。まぁそういう人も世の中にはいますが、そういう話をしているのではなくて、我々は痛みを自分で用意しているわけではありません。怪我をしたら痛いという状況あるいは身体は、生まれてある程度成長すれば、ほぼ確実に持たされるものでしょう。 つまり、プロジェクトの上位分析に、「よくわからない何者かが私に痛みを持たせている。」というふうに入れる方が適切であると考えられます。では、どうなるのか?やってみましょう(図4)。

図4 痛みの上位分析2 

図4について考える前に、なぜこのようにしたのかを解説します。
「よくわからない何者かが痛みを持たせている。」⇨「何かを避けさせるため。」
ここでもう少し具体的にしてみましょう。避けたい存在はさまざまなものが考えられますが、ここでは肌の怪我に置き換えてみます。

⇨「肌の怪我を避けさせるため。」⇨「感染症になることを防ぐため。」 
感染症に関しては、最近は抗生物質がありますが、昔はなかったです。進化の過程において、遺伝子の変化速度が遅い人類は、抗生物質が大量生産されるようになった1940年代以前は、抗生物質がない時間を長く過ごしてきたことを考慮してそのように繋いでいます。

⇨「感染症が原因で、死なないため。」⇨「個体が、あるいは部族やグループ、種が生存するため」

図4の解説

とりあえず、こんな感じでしょうか。ちなみに、上位分析においてより上位の目的や欲望を推定する際のポイントは、「それによってどうなるのか?」を考えることです。ケガをすると傷口から菌やウイルスが入るかもしれませんし、感染症になると、抗生物質のなかった時代には死んでしまうかもしれません。 さて、話を戻しましょう。では今度は、これが成立するものとして、逆方向に持っていきます。つまり2回目のプロジェクトの下位分析です。下方向は挙げ出すとキリがないので、今回はとりあえず「生存させたい」⇨「痛みを感じさせる」まで繋いでみましょう(図5)。

てみましょう(図4)。

図5 痛みの下位分析2 

こちらも図5の解説です。
痛みの定義は、どうしても避けてしまうものであり、避けるという行動に対して生存という目的を繋ぐのであれば、痛みによって避けたい何かは、生存につながらない何か、あるいは死につながる危険性のある何か、だと推定できます。そのため、このような繋ぎ方をしてみたわけです。

図5の解説

そして急ですが、このように、生物の最上位の目的を「生存と繁栄」とする考え方が、進化論の一般的な考え方です。つまり、苦しみも、欲望も楽しさも悲しさも痛みも感動も、全ては生存と繁栄のためだと考えられています。ここでひとまず、最初の問いの答えに辿り着いたわけです。
しかし、納得ができない人もいるでしょう。「そもそもここまで繋いできた過程はあくまでも推定であり、確定的ではないのではないか?」という疑問を持った方もいるかもしれません。ではなぜ、人類における最上位の目的が“生存と繁栄”とされているのでしょうか。 主な理由は2つあります。一つ目は、プロジェクトの上位分析において、生存と繁栄より上に目的が思いつかないこと。二つ目は、生物におけるすべての恣意的な文脈は、とりあえず生存と繁栄という目的で説明できると考えられるからです。 一つ目に関しては、それ以上でも以下でもありません。これ以外に何かしら整合性の取れる目的があれば話は変わってきますが、実際には出てくる目的は長い階層構造を通して生存と繁栄に吸収されます。もちろん、これは絶対ではありません。しかし、この説よりも有力な説は、現状見つかっていません。 そして、二つ目に関しては正直、完全に証明することはなかなか難しいでしょう。「生存と繁栄という目的で生物のシステムを完全に説明できる!」とは言わないものの、大体説明できるだろうといった感じで、仮の足場を作って進んできた結果として、そういう感じになっていると理解していただければと思います。

さて、痛みなどを感じることやその他機能の存在理由がわかったところで、一つの疑問が生じます。
「その最上位の目的は、どこからきているのか?」
確かに最上位にある“生存と繁栄”という目的で複雑な物理世界と相対していれば、我々の体の複雑さにも納得がいきます。上下関係の図で考えてみても、複雑な物理世界の中でたった一つの有限化された目的を果たそうとするならば、その間に考えられないくらい深い階層構造を持たなければ、その目的を果たし続けることは難しそうです(図6) 。

図6:ケミカルプロセスに相対する目的と間を繋ぐ人間システム

一方で、「たとえ目的による物理世界の有限化装置だとしても、元がないなんてありえないのではないか。」と思ってしまいます。

目的という存在はどこから生まれたのか?本当に最上位が”生存と繁栄”なのか?「何かをしようとする。」という文脈がただの動きの中に存在するとはどういうことか?すなわち、ケミカルプロセスの中に目的が存在するとは、どういうことなのか?どうしても、ケミカルプロセスの中に目的が存在するということ自体に、どこか違和感がある。

本書を貫く疑問の提示
問題提起

世間一般的にマインドフルネスなどの、諸行無常のような話はよく聞きますし、目的も含めてケミカルプロセスと言われればそうなのかもしれませんが、どこか納得がいきません。 “ただの動き”の中に“恣意的な動き”が存在することが、いささか頭の中で認識できないわけです。「そういうもんだ。」と言われればそれで終わりかもしれませんが、どうしても違和感が残ります。 一方でこれについて考えることに関しては、アカデミズムやその他機関などでさまざまな人が研究などを行っています。 その上、違和感の正体をしっかりと掴めていません。そこでまずは、違和感の原因の本質はどこにあるのかを突き詰める必要があります。

そして、本書の狙いはこの違和感の正体を哲学的視点から探ることです。違和感の原因の本質を探ることで、目的とケミカルプロセスに関する議論の押し進めることを目的としています。

違和感の正体を突き詰めるためには、できる範囲で認識を深めるのが一番でしょう。「新しい領域を認識し、欲望というセンサーに反応して出てきた感情を言語化して、外在化されたコンテクストと今というコンテクストを認識し、それがまた欲望というセンサーに反応して…」をひたすら繰り返す中で、認識は深まっていくでしょうし、その中で自分の中の違和感を突き詰めるチャンスが出てくるかもしれません。欲望というセンサーの中には「違和感の正体を突き止めたい。」という欲望も存在するはずです。 できる範囲で認識を深める上で使えるものはなんでしょうか。 現状で揃っているのは上下関係の図 と自分の中にある違和感の2つでしょう。 そこでまずは、上下関係の図を“恣意的な動き”と“ただの動き”に分割してみるところから始めていきましょう。すなわち、目的とケミカルプロセスの2分です。

2章 ”ただの動き”と”恣意的な動き”

モノクロだろうが色がついていようが、何も変わらないのである。

2.1 上下関係の図の分割

2つの世界

前章で述べた通り、人間の意識や感覚、感情、あるいは人間のみならず他の生物の機能も含めて、それらは生存と繁栄という目的のもと、手段として存在していると考えられています。一方で、以下のような疑問が出てきていたのでした。
① じゃあ、生存と繁栄という目的はどこからきたのか?
② そもそも、目的という存在がケミカルプロセスに存在しているとはどういうことなのか?ただの動きの中に恣意的な動きというのは自然発生するものなのか?ただの動きの中に恣意的な動きが存在するというのはどういうことなのか?
そして本書では、上下関係の図と違和感の2つのリソースを用いて違和感の正体を明確化することで人間の認識における矛盾点を洗い出し、これらの問題に対する違和感や論点を哲学的・概念的視点から洗い出すのが狙いです。 違和感が深まれば、また新しい議論の方向性て見えてくるかもしれません。それでは、議論に入っていきましょう。
議論を進めるために現状持っているリソースとしては、違和感と上下関係の図の2つがありました。図4の上下関係の図をただの動きと恣意的な動きに分割すると、図7・図8のようになります。

図7・8 "恣意的な動き"および"ただの動き"の図例

① 恣意的な動き
・「〇〇したいから、▷▷したい。」が下の方へ続いていく。
・下に向けて、「だから」が続いていく。
② ただの動き ・「〇〇すると▷▷になる。」が上の方へ続いていく。
・上に向けて「そうすると」が続いていく。
・元の図から恣意性が取り除かれた状態。それ以外は特に変わらない。

2つの動きの説明

もちろん、これらの図は本来下に行くほど代替手段出てくるため、図においては分岐が増えていきます。本書では簡略化のため、経路の1つのみを示しています。さて、図を見てみてどうでしょうか?皆さんは何か違和感が出てきましたか?ここから、これらに対して出てくる違和感を元に議論を進めて行きます。この議論の目標は、両者の認識を深めた後に、それを元に戻すことで認識を深め、新しい論点を洗い出すことです。それではまず、“恣意的な動き”の図から入って行きましょう。

2.2 恣意的な動きの図Part1

いざ、尋常に!

私が恣意的な動きの図に対して出てきた違和感を以下に示します。 

  1. 「〇〇したい。だから、▷▷したい。」は成立するのか?

  2. 大元の最上位が生存と繁栄という目的なのであれば、一番下はどのようになるのか?

まずは一つ目の問いから考えていきましょう。この問いは、二つの主張のぶつかり合いから生まれています。例えば「絵を描きたい。」という目的で作成された上下関係の図に対する主張として、以下の2つが挙げられます。
①「私は絵を描きたいわけであって、指に電気信号を送りたいわけじゃない。」
②「私は絵を描きたいから、指に電気信号を送りたい。」
一見すると、どちらも真っ当なように感じられます。一方で両者は主張としては食い違っています。どちらが正しいのか。とりあえず、両者の主張はどのような考え方によって構成されているのかをみていきましょう。

①「私は絵を描きたいわけであって、指に電気信号を送りたいわけじゃない。」
・考え方としては、「手段を問わないんだから、替えが効くものは意味を持たない。」という考え方。
・目的はあくまでもやりたいことのみに宿るものであって、それ以外の手段は代替が効くから、別に重要ではない。例えば、画像生成AIもあれば友達に言って書いてもらうこともできるかもしれない。あくまでも達成したいのは絵を描くことだ。だから代替手段があるものは意味を持たない。

②「私は絵を描きたいから、指に電気信号を送りたい。」
・「自分にとってやりたいことが本当にやりたいことならば、すなわち上下関係の図における最上位の目的が“真に”意味を持つならば、それを実行するための手段も意味を持つ。なぜならば、具体的にして解像度を上げないと、実行することができないからだ。」という考え方。

両者の主張

2つ目の主張に関して、ここで“真に”という表現をあえてする理由は、目的に意味というものが必ずしも宿る前提では考えないという意味です。「そこに真に意味が宿るならば、その下にも意味があると言える。」という主張を指します。もちろん、“真に”ということは起こり得ないでしょうが、ここでは条件付けとしてそれが必要だと考えます。意味を持たないのであれば、より下のタスクにその意味が引き継がれることはないからです。 両者の考え方が出揃いました。あくまでも物理世界で達成したいのだから物理的に還す必要があるのか、それとも、還した結果自体は意味を持たないのか、どちらなのでしょうか。

しかし、両者の主張はどちらも成立しています。解像度の高い状態で行われないと達成することはできないので、「達成したいから手段をやりたい。」は成立します。一方で、替えが効くと同時に、あくまでもやりたいことはより根本的な目的、すなわち図で一番上位の目的そのものであるということも事実でしょう。 そして、図をそのような視点で見てみると、一つ重要なことに気がつきます。ほとんどのタスクは何かしらの欲望の手段であり、何かしらの欲望の目的であるということです。 例えば、真ん中を選ぶと、それは常に下にあるタスクのための目的だし、上にあるタスクのための手段です。図6を見ると、「感染症になることを防ぐこと」は、「感染症が原因で死なないこと」の手段であり、「肌の怪我を避けさせること」の目的です。そして、上に行くほどそのための手段は増え、そのタスクが従事する目的は減りますが、下に行くほど従事する目的が増え、そのタスクの手段は減って行きます(図7・8)。

図7・8 "恣意的な動き"および"ただの動き"の上下関係

つまり、それぞれは目的としての性質および手段としての性質の両方の性質を持ち、それはグラデーションになっています。(以下、目的としての性質を“目的性”、手段としての性質を“手段性”と表記) ここでいう目的性は、「目的=達成したいことそのもの」とした時のその度合いを指します。また、手段という言葉の意味は、「目的を達成するための方法」なので、手段性が強くなるということは、「あくまでも目的のためであり、それ自体は直接的に意味を持たない。」という側面がどんどん強くなっていくということを指します。 つまり、目的性が高いということは、それ自体を達成したい度合いが強いため、代替が効きにくいということであり、手段性が高いほど、代替手段が多いため目的性が弱いです。 そのため、上下関係の図においては上に行くほど目的性が強く、下に行くほど手段性が強くなります。 世間的には、よく“大目的”や“小目的”という言い方をすることがありますが、そのようなイメージを持つと理解しやすいでしょう。 このようにして考えてみると、目的性を手段性を数字で表すことができます(図9)。

図9 上下関係の図における上下の関係性

目的性50%手段性50%の場合もあれば、目的性70%手段性30%、目的性20%手段性80%の場合もあるでしょう。もちろんそんなに簡単に、あるいは厳密に数字で表せるものではないですが、考え方としてはそのような考え方をすることができます。 ここで気になるのは、「目的性100%―手段性0%、目的性0%―手段性100%は何を指すのか?」という問いです。これは恣意的な動きに分割したすぐ後に出てきた「大元の最上位が生存と繁栄という目的なのであれば、一番下はどのようになるのか?」という問いを含みます。 目的性100%―手段性0%に関しては、最上位の目的、すなわち人類で言えば生存と繁栄でしょう。これより上にまた目的を思いつけば、話は変わってくるかもしれませんが、現状においては生存と繁栄達成したい目的そのものです。では、目的性0%―手段性100%は何を指すのでしょうか?これについて考えるために、ここで“ただの動き”の図について考えます。恣意性の話を抜いて概念的な話をしたのちに、恣意性を戻す作業をした方が、この部分についてはわかりやすいからです。その話をした後に、また恣意的な動きの図へと戻ってきます。

目的性0%―手段性100%は何を指すのか?目的性が減り、手段性が増えるということは実際には何を表しているのか?何より手段性が100%の時、目的性が0%になるのはどういうことなのか?あるいは、目的性が100%の時、手段性が0%になるというのはどういうことなのか?目的性と手段性の間には、あるいはその中には、どのような関係性が存在するのか?

本節における問題提起


2.3 ただの動きの図

図9

今度は、ただの動きの図を見てみましょう(図7)。こちらの図に対して出てくる問いを以下に示します。

  1. 目的に近づくほど抽象的な感じもするし具体的な感じもするが、上下関係の図に抽象性、具体性の関係性はあるのか?

  2. 一番上は何を示し、一番下は何を示すのか?

恣意的な動きの図の目的性0%―手段性100%について考えるために向き合いたい問いは2つ目ですが、それについて考えるためにはまず一つ目の問いについて考える必要があります。
そもそも、一つ目の問いはどういう問いなのかをまずは見て行きましょう。
恣意的な動きの方の図において、一番上は目的としての生存と繁栄だろうと考えられるため、それを概念に落とし込んで、すなわち恣意性を抜いて生存と繁栄という概念だと考えることができます。恣意的な動きの図においては下向きに「そのためには?」という問いが投げかけられていく状況になりますが、ただの動きの図においては、上向きに「そのため」や「だから」が続きます。「指に電気信号を送る。そのため、ペンを持って絵を描くことができる。」だいぶ端折りましたが、このようなイメージです。あるいは、「指に電気信号を送る。」やその他代替手段に伴って、「ペンを持って絵を描く。」という言葉が定義されています。このように見てみると、ただの動きの図においては、上の概念が、下の概念によって定義されていると考えられます。そして、横方向の線で切り出した時には、すべての階層において同じことを指し示していると考えられます。いわば、より上位の概念がより下位の概念によって説明されている状態です。ちなみに、上位・下位という表現は優劣を連想させるかもしれませんが、その意図は全くありません。この場合、具体性が深まることによって説明されているような感じがします。すなわち、下に行くほど具体的になるので、上に行くほど抽象的になるような感じもします。
一方でそもそも、生存と繁栄という概念そのものは我々にとって非常に身近な存在です。別に文明が発達していなくても生死は意識するでしょうし、子作りも当たり前のようにするでしょう。小さい子も含めた部族運営も普通に行われます。そもそも、「指に電気信号を送る。」というタスクよりも「生存と繁栄」という概念の方が我々にとってはむしろ具体的です。
上記により、「生存と繁栄という概念は抽象的なのか?具体的なのか?」という問いが出てきたわけです。

目的に近づくほど抽象的な感じもするし具体的な感じもするが、上下関係の図に抽象性、具体性の関係性はあるのか?“生存と繁栄”という概念は抽象的な存在なのか?具体的な存在なのか?より下位に行くほど抽象的になるのか?それとも具体的になっていくのか?
そして違和感の正体を探る上では、“生存と繁栄”という概念にどこか “浮いた感じ”がする。この正体はなんなのか?

”ただの動き”の図に対して出てくる違和感
抽象性と具体性。そして、浮き。

この問題について考えるために、まずは抽象性・具体性の意味について考えて行きましょう。
「抽象性・具体性とはなんなのか?どこから生まれているのか?」
GPT4に聞いてみると、抽象性は「物事の具体的な詳細や特徴を省略し、より広い範囲や一般的な性質に焦点を当てる考え方や表現の特性」、具体性は「物事の特定の詳細や特徴に焦点を当てる考え方や表現の特性」と表現されます。人間から見た時の抽象性というのは、いわば主観から成立する具体性をもとに、それを別の視点から捉えた際の規則性です。 これに関しては、自然言語について考えるとわかりやすいです。
日本語や英語も含めた自然言語は、まず物理世界を何かしらの形で定義して“有限化”します。例えば、「木に実っている赤い皮をした食べられる甘い何か」をりんごと定義してみたりします。一方で、物理世界は複雑です。同じようなものがあるとします。この際に、我々はその違いを見つけようとします。そうすると、具体的な違いに目が行きます。違いは、皮の硬さかも知れませんし、甘みの種類が違うかも知れません。あるいは、同じように見えるものでも、形が違うこともあるでしょう。この場合、物理世界に対する理解を深めるためにそれらの相違点について考えようとします。そうすると、相違点に名前をつけます。 あるいは、全く別に見えるものに似たようなところがあることに気づきます。物理世界に対する理解を深めるために、その共通点について考えようとします。そのため、共通点に一旦名前をつけてみます。 このように、理解を深めるためには共通点や相違点に名前をつける必要があります。いわば有限化した定義を概念世界で仮想シミュレーションしつつ、そこで出てきた仮説を物理世界において検証することで、我々は物理世界をより深く理解して行きます。そして、その過程で概念世界をメタ的に眺め、相違点や共通点に一旦名前をつけることが抽象性の始まりでしょう。そして抽象的な概念の相違点や共通点をもとにまた新しい定義づけが行われ、そのように他の概念との関わり合いの中で自然言語は抽象性を増して行きます。 例えば、相違点は実は特定の目的から評価したら意味を持たないかも知れません。あるいは似たような3つ目の何かが発見されたら、根本的に今までの相違点を見直したり、体系的な認識を組み替えたりする必要があるかもしれません。このようにして、定義が更新されたり新しい定義が作られる過程で、抽象性が出てきます。
少しウザいかもしれませんが、抽象性についてもう少しお付き合いください。 先ほども述べましたが、我々は有限化した定義を概念世界で仮想シミュレーションしつつ、そこで出てきた仮説を物理世界で検証することで、我々は物理世界をより深く理解し、それを目的の達成のために利用しようとします。規則性の発見は、未来予測です。対象物との関わり合いの中で未来を予測し、その性質をうまく利用することで、目的を果たそうとします。「規則性を発見するためには、抽象性を深めながら規則性を定義づけ、またその規則性の定義を更新し、他の規則性と比較する中で見えた新しい規則性に名前をつける。」このような形で抽象性は深まっていくわけです。 逆に言えば、具体性はわかりやすさとも言えるでしょう。つまり、人間の五感やその他感覚、感情、意識のあり方などに依存する部分が多いです。「具体性は人間の主観に依存する」と言えます。
余談ですが、小学校の頃、数字の定義に苦戦した方はそれなりにいるのではないでしょうか。上記のように考えてみると、同じものがあったときに、その状態に対して定義をつけること自体は当たり前のことです。数字の定義づけが抽象的であるため、頭の中で納得しづらい人や違和感を感じる人もいるかもしれませんが、数字の定義づけを行うこと自体は実は自然な現象です。

話を戻しましょう。

「この場合の抽象性は、どのように生まれているのか?」
・生存と繁栄という目的があり、それを果たすためには環境について知る必要が出てくる。
・知るためには感覚器官が必要である。
・同時に、そこから感じることのできない何かを推測することも必要である。
・五感が生まれ、そこから得られた情報をもとに定義づけを行い、頭の中で仮想シミュレーションをしつつ、実際に色々と試すことで、頭の中の認識を物理世界に沿わせていく。
・発見したいものは、規則性である。規則性がわかれば、未来を予測しやすくなる。そうすると、それをうまく利用したりすることができる。
・五感だけでなく、頭の中で仮説を立てながら色々と試す過程で、必ずしも直接的には感じることのできない規則性を見つけることができる。
・それに名前をつける。
・抽象的な定義が生まれる。

抽象性の生まれ方

このように生まれています。ちなみに、五感が生まれる部分などは随分と端折っていますが、ここについても進化論だけで説明できていないとされている部分もあります。今回はその辺については特に触れません。 では、
「“生存と繁栄”という概念はこのような意味で、抽象的だと言えるか?」
どこか違う気がします。ある意味ではそうでしょう。つまり、「より上位の目的のために何かをしようとしているらしい。そしてより上位の目的は「それはなんのために必要なのか?」という問いを投げかけることで、発見することができるらしい。」というふうに規則性を発見しながら、見つけた概念であるとも言えます。 一方で、先ほども述べましたが、生存と繁栄という概念は我々にとって非常に身近です。多くの人は物心ついた時から死にたくないですし、子供を作るということも普通のことです。つまり、人間の主観を基準にした際には、“生存と繁栄”は明らかに具体的な概念でしょう。 おそらく、こういう意味で抽象的ということでは無いようです。 人間から見た時の抽象性ではない。浮いた感じの正体も掴めていない。 では今度は、人間から見た具体性、抽象性ではなく、“真の”具体性について考えてみる。
ここからの説明は、大変申し訳ないですが、表現から入って説明をしていきます。互いが互いの非存在証明である事象を考える場合には、疑問について一緒に考える形式で説明をしていくこと難しく、私の技量では出来ないからです。
まず、そもそもの話として、我々が真に具体性を持つことはありません。

「真に具体性を持って表すということは、有限化された何かを表すしても、それは宇宙で繋がっている。全ての次元における説明のためには、最終的に宇宙の説明が必要になる。概念世界で物理世界を真に表現しようと思うならば、自然言語は微積分される。宇宙は無限に広がるため、概念世界を物理世界の輪郭に真に沿わせようと思うなら、定義を無限に更新する必要が生じる。そうするとどうなるか、定義同士の境目がなくなる。境目が存在する限りそれは真に表現できているとは言えない。いわばこの世界を真に表現させるにあたって現象やもの、その他何かしらを定義として有限化すること自体が間違っている。しかし境目を存在させないとそもそも表現することができない。言語として有限化したその瞬間に定義に縛られる。もっとも、それ以外にもフラクタルやカオスなど、説明することが困難な原因はある。結局は、それを真に表すならば、「それはこの世界そのものである。」としか言いようがない。」

真の具体性とは何か

少しわかりづらい表現かもしれません。言語を表すためには言語が必要です。真の具体性は、特定の種(例えば人間)による理解にとらわれない客観性と表現してもいいかもしれません。何かを真に表すということは、すべての説明が必要になります。対象物の説明のためには分子の説明が必要になり、分子の説明のためには宇宙の説明が必要です。そして何より、自然言語は微積分されます。情報量を増やし続けるほど対象に対する解像度は上がり、それは最終的に無限に広がります。それでも真に表すことはできず、真に表そうと思ったらそれはそのものであるとしか言いようがないでしょう。我々は物理世界の輪郭に概念世界を沿わせていくことはできますが、それを追い付かせることはほぼ不可能と言えるのではないでしょうか。もちろん、デジタルの計算速度に期待を寄せれば、話は変わってくるかもしれません。しかしそれでもなお、難しいのではないかと思います。 真に具体性を持つということは、ケミカルプロセスただそれだけである。 さて、この具体性をもとに考えるとどうでしょうか? 先ほどの浮いた感じの正体は、ここに対する浮きのような感じがします。生存と繁栄という概念そのものが浮いている感じがします。ケミカルプロセスで表されるものを有限化して表現していること“自体”が、どこか浮いている感じがする。 すなわち、そもそも真に表されることのない何かを、強制的に有限化して表そうとしていること自体が、自分が感じていた浮きの正体かもしれません。とりあえずこれを、真の具体性と対比して真の抽象性と表現します。 「強制的に概念を定義することによって、その側面からケミカルプロセスを捉え直すということが起きている。これによる強制的な有限化を真の抽象性とする。」 そのように真の抽象性を定義すると、真の抽象性は人間にとっての具体性と抽象性を丸ごと呑み込むものであると考えられます。なぜならば人間は真に具体性を持って表すことができず、基本的に自然言語やその他強制的な有限化装置を用いてこの世界を表現するからです。そしてそれは理論上、常に真の具体性に変換可能であり、しかしその変換が現実的に不可能であれば、むしろ起きたことこそが真の具体性としか言えないかもしれません。 そして、その観点で見ると、上下関係の図において手段として深めていた具体性は、真の具体性でしょう。すなわち、「“元々”、生存と繁栄という概念が真に抽象的で、それに対する真の具体性を深めていた。」ということになってくる。目的を果たそうとする過程で新しい具体性が必要になり、我々はまたそれに対して名前をつけることで必要な手段を明確化しようとする。そもそも有限化することのない、それによって表され得ない何かを強制的に“自然言語で”有限化する。そこに対して出てくる違和感が“浮き”である。上下関係の図から恣意性を抜くと図7のようになりますが、これはある意味ではほとんどの場合常に浮いているわけです。 真の具体性に対する浮きをどのような言葉で表現するかは人によって意見が分かれるでしょうが、とりあえず本書では“真の抽象性”とします。また、区別しやすいように一般的な抽象性を“人間から見た際の抽象性”とします。少し長いかもしれませんが、そもそもそんなんにたくさん使わないので大丈夫です。基本的に、本書で抽象性という言葉が出てきたら、それは真の抽象性です。 さて、このように考えてみるといくつか疑問が出てきます。

  • 自然言語として有限化している瞬間に浮くのであれば、他の自然言語も浮いているということで良いのか?

  • その場合は、真の抽象性100%は何を示すのか?」

基本的に、すべての自然言語は浮いているため、抽象性を持ちます。例えば"水筒"や”水を飲む”という有限化なら、図10のような形になるでしょう。

図8:ただの動きの図例 図10:自然言語の抽象性具体性の例


他の強制的に有限化された定義も、真の抽象性を持つでしょう。しかしここで注意して欲しいのは、恣意性を加えたときに目的性100%を持てるのは、目的そのものである概念、すなわち“生存と繁栄”だけです。水筒そのものに動きを付け加えたとしても、例えば「水筒を作る」というふうにしたとしても、果たしたい目的そのものでなければ、目的性は100%ではないため、真の抽象性と目的性、真の具体性と手段性が噛み合いません。そうすると、もともと目的性0%手段性100%について考えたい我々は、抽象性・具体性をもとに目的性・手段性について考えることができなくなります。そのため今回対象とする概念はあくまでも目的そのものである“生存と繁栄”です。ここでいくつか疑問が出てきます。

  • 真の抽象性100%は生存と繁栄で本当にいいのか?

それで良いです。定義ごとに真の抽象性は存在すると同時に今回は生存と繁栄という言葉が具体性によって定義されるため、この図においては生存と繁栄が抽象性100%です。
このようにして考えてみると、重要な問題があることに気づきます。

  • 抽象性100%において具体性0%、抽象性0%において具体性100%とはどういうことなのか。

「“浮く”ということは“概念の有限な定義”である。」とすると、それはあくまでも具体性を持ってしか定義されないはずです。 つまり、生存と繁栄という概念は具体性を持ってしか理解できないはずです。そこに生存と繁栄という言葉がただポンと置いてあったとしても、そこに意味はないでしょう。つまり、具体性が深まるほど代替手段が増え、その代替手段の概念によって、抽象性が定義されています。明確に表現することはできないが、代替手段の共通点が“生存と繁栄”であり、それらが並べられていることで結果的に生存と繁栄という概念が定義されているわけです。いわば、生存と繁栄という規則性によって物理世界が捉え直されているイメージです。上下関係の図において、それぞれの階層の共通点に生存と繁栄という名前をつけたとも言えるし、生存と繁栄が具体性によって定義されているとも言えます。 そのように具体性を持ってしか理解されないはずの抽象性は、具体性が100%になった時に、抽象性が0%になります。つまり、「真にそれを定義するとき、それは定義されない。」ということになります。あるいは、具体性によって定義される抽象性が100%の時、具体性が0%になります。具体性によって定義されている抽象性は、具体的である時に浮くことができないと同時に、抽象性によって捉え直される具体性は、真に浮いている時もはや具体性を失っているわけです。
まず、まずは具体性100%、抽象性0%の時を考えましょう。具体性100%はケミカルプロセスです。この状態においては、強制的な切断が起きえない。なぜならば、切断した瞬間にそれは定義の更新を無限に必要とし、先ほども申したように自然言語が微積分されるからです。あるいは、抽象性100%、具体性0%の時はどうでしょうか。真に有限化して定義をしているとき、それは具体性を持つことはできない。この理由も前者と同じでしょう。 冷静になって考えてみれば当たり前の話かもしれません。そもそも抽象性は具体性から浮いた存在です。そして、ただ抽象と具体を変換しているだけの…すなわち全く同じものを指し示しているはずのものが交わらないのです。有限と無限を行き来しようとするため、変換を定義してもそれは真にはできていないということでしょう。むしろそのように定義したとも言えます。 この議論を先鋭化すると次のような押し問答になります。

「物理世界を生きる我々にとって、有限化された概念は具体性をもってしか定義することができないが、有限化された概念は真に具体性をもって定義することができない。」

この問題については、正直考えることが難しいです。そもそも片方の主張が肯定された瞬間にもう片方の主張は否定されますが、両方肯定されなければ成立しないわけです。 抽象性、具体性に関する議論はとりあえずこのくらいでしょうか。本書は全体として、目的性と手段性、抽象性と具体性の議論を深めてから、これを重ね合わせて議論を組み立てていく形式を取ります。そしてその前に、抽象性と具体性の話は、目的性0%手段性100%について考えるために考え始めたものでした。本来は、ここで恣意的な図の方へと議論を戻していくわけですが、その前に頭を少しクールダウンしましょう。

もし論理を強制的に有限化した存在がいるのなら、「それは誰?」となる。すなわち、説明がなされる瞬間に、説明できないことが証明される。その問いは無限に繰り返されるが、終わることがない。

浮きが持つ永遠の階層構造

2.4 「真に意味を持つとき」は存在するのか?目的の意味は証明されるのか?

どこへ進んでも意味はないのである。あなたも私もケミカルプロセス。あぁ、しかしどこにも行かないから何があるわけでもない。それでも我々は生きていくのである。さてさて、どうしようか…

目的性の話に戻る前に、最初の目的性の図において条件付けとして存在した「目的が真に意味を持つならば」という条件付けについて考えていきます。最初にその話が出てから議論をするまで時間がかかってしまいましたが、上下関係のことばかり考えていた頭を少し別の形で回してクールダウンすることも目的の一つです。

ここから先は

13,898字 / 30画像

目的とケミカルプロセス

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?