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シン・ウルトラマンから感じる人類という群れの尊さと虚しさ

早速、シン・ウルトラマンを観た。映画を通して、群れを成して生きることの尊さと虚しさを感じた。一部、ストーリーに触れているので観ていない人は読まない方がよい。

人類は群れを成して生きる

エヴァでも同様の描かれ方をしているが、シン・ウルトラマンでも人類が群れを成して生きていることが強調されている。
それは、主人公や禍特隊メンバーとのやりとりからも見えるし、外星人が単体で地球にやってくることからも伺える。また、ベータシステムにより人類を巨大化させることで60億体もの生物兵器を確保できる可能性があることをメフィラスが示唆していることからも、知的生命体は単体で活動が可能というのが前提となる考え方のようだ。
我々の生活に目を向けると、子供はともかくとして大人は自律しているように見える。しかし、それは経済社会という枠組みを通して成立する自律だ。コーヒー一杯を飲むだけでも、本当の意味では一人では成し得ない。
とはいえそれは悪いことではなく、一人ひとりができることに対して一所懸命に取り組み、貨幣という形であったり時には信頼や優しさで支え合ったりする。これこそが、人類の持つ尊き習性ではないかと感じる。

圧倒的な存在に対してどう自己を保つか

人類は地球に君臨する最も知的な生命体であり、その中で築いてきた文明はある種の心の安定になってきた。分からないこと不確定なことを排除することが生存の確率を上げるためだろう。
一方、本作では人類を凌駕する能力・文明・技術を持つ外星人が多く出てくる。人類の築いた文明など取るに足らないものだったとしたら、我々のアイデンティティはどこに残るのだろうか。
ザラブ星人は「感じるとそれを具体化できる」という趣旨の台詞を発していた。また、ウルトラマンについて質問された時に「それは分からない」とドライに諦める姿勢が描かれている。さほど考えている様子はない。強いていえば、人類を自滅に追い込む計画は持っていたが、それ自体が練られたものではなく、これまでの仕事から確立してきた手法の可能性もある。おそらく、後のメフィラスと比較できるように、人類からすれば高度な星人であるが、宇宙全体から見たら低級な存在であることを示そうとしているのだろうが、それにしても考えて無さすぎに見える。
一方、人類は考えることがその強みであるという描写が見られた。ウルトラマンが登場するまでは人類の叡智で禍威獣を退けてきた。また、ウルトラマンから与えられたベータシステムのメカニズムを説明する数式を元に世界中の有識者を集めて考え、答えを導いた。
困難があり、一人では到底乗り越えられない問題があったとしても、目的を一つにして立ち向かっていく力。これが人類の強さでありアイデンティティなのではないか。

選択と見せかけた支配

メフィラスはベータシステムの力をプレゼンテーションし、日本国に対してその有益性を説いた。本作では、それに飛びつく日本政府と、阻止を決意する禍特隊が描かれている。初代ウルトラマンでは、地球を譲る契約を持ちかけるメフィラスと、それを拒む子供という描写があるようだが、大人は簡単に地球を譲ろうとしてしまったという皮肉だろうか。
それはそうとして、強力な力を見せつけられた時、弱者が取れる選択肢は限られてくる。ベータシステムを日本が獲得することを拒否したとして、他国にその権利が渡るだけである。仮に、人類全てがそれを拒否したとして、メフィラスによる物理的な支配が予想される。
ゲーム理論に従い各々が最適な戦略をとった時、期待しない結果となり得るということだ。
おそらく我々の日常や歴史には、このような選択と見せかけた支配が数多く転がっているのだろう。選択に見せかけた支配の恐ろしいところは、支配される側が納得して選択したと信じてしまうところだ。支配されていることにも気づかなから、反旗を翻るという気持ちも起こらない。

まとめ

本作では、ウルトラマンを始めとする地球外生命体を題材として、群れを成して生きることでその文明を発展させてきた人類の尊さや、群れであるが故に最善の判断が愚かな選択に繋がってしまうことの虚しさを描いているように感じた。

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