23歳 これまでの歩み

ちょっとだけ人生の振り返りをします

主に高校以降のことを書いてますけど、人生を振り返るとかいうことをあまりしたことがなかったので、テンションが上がって長くなるかもしれません。

どうぞ気長にお付き合いください。

高校まで

ひたすら野球やってました。小学校でソフトボール、中学で軟式野球、高校で硬式野球という、順当な野球人生を歩んできました。

大して上手かったわけではないですが、中学以降は毎日朝早くから朝練して、夜は遅くまで部活して、家に帰ってもバットを振って、、っていう生活でした。

今考えるとなんであんなに頑張れてたのかが分かんないくらい人生が野球一色でした。

中学も高校も公立で、大して野球が強い学校ではなかったですが、練習のきつさでいったら県内随一だと思います。どこの高校の野球部もそう思ってるかもしれないですが笑

嬉しいことに中学では福岡県で準優勝することができましたが、高校では私立高校の壁に阻まれていい結果は出せませんでした。(最近はうちの野球部強いみたいなんで気になる人はチェックしてね!)

野球人生の最後の夏が終わった時は不思議と後悔とかはありませんでした。それまでにもう死ぬほどバット振ったし、ノック受けたし、走ったし、もうお腹いっぱいだったのかもしれません笑

ちなみにポジションはショートまたはセカンドで、バッティングはへたっぴで守備はそこそこでした。タイプとしてはパワプロ君でいうとCばっかりなタイプですかね笑

画像5

奇跡的に画像フォルダの中に残ってた一枚


学校生活では、自分でいうのもあれですけどリーダーシップがあったのでいろんなところでリーダーをやってました。

中学では野球部の主将だったり体育祭のブロック長だったり修学旅行委員だったり、高校ではちょっと抑えめでしたけど学級委員とかは毎年必ずやってました。自分から進んでなりたいと思ったことはありませんが、そういう役回りの人間だったってことだと思います。

自分自身、お願いされて悪い気はしないし、何より負けん気が強いので他の人がリーダーをやっていてうまくいかないことがあると「じゃあ俺がやるよ」っていう気持ちになっちゃうタイプでした。

全くカリスマ性があるわけでもなく、先陣きって突っ走る系でもなく、あえて言うなら周りが見える人間だったと思います。

それまでの流れと今の全体の雰囲気と「この人はこう考えてるんだろうな」という個々人の気持ちとを汲み取って、「こういう風にしよう」って全体の方向性を決めていました。

最後の「決断を下せる」という所は自分の良い面だと思っています。中学とか高校の段階で、集団の中でしっかりと周りに配慮しながらも決断を下せる人って意外と少ないと思うので、それが自分の自信やアイデンティティにつながっていたのかなと思います。

高校生

真ん中らへんの「実」を持ってるのがおれ 若すぎ



受験期

理系でモノづくりが好きだったのでとりあえず工学部に行くことは確定していて、そのころはパイロットになりたかったこともあって、機械系の勉強をするために九大の機械航空工学科というところを受けました。

結果、九大には合格しましたが希望の学科には通らず、どうしようかと悩みましたが、生まれ持っての負けず嫌いが発動して浪人して1年間勉強することにしました。

浪人した1年間は、学ぶことや自分を見つめ直すことも多かったのでとても貴重な時間でした。毎日10時間以上ひたすら受験勉強なんてもうしたくないですけどね笑

浪人中に成績がすごく伸びて、これはもっと上の大学に行けそうだということで次の年は京大を受けましたが、受験前日にインフルエンザを発症し、試験中には鼻血が止まらず、試験官に何度もティッシュを要求するという大失態。答案用紙が血塗れになることだけはなんとか防ぎましたが、結果は普通に不合格でした。

その後、後期で九大の機械航空工学科に合格して、結局前の年の最初の志望に落ち着きました。人生何があるか分かんないもんですね。

京大に行けなかったことに当時は少しは落ち込んでましたけど、「京大に行っていたらできなかったような挑戦をいっぱいしよう」という気持ちで九大に入学しました。

入学式

あれ、ここで一気に老けてる、、、???



大学期

「挑戦」をテーマとしてスタートした大学生活ですが、振り返ってみても多くのことに挑戦してきたと思います。

ここでは内容を絞って、

「合唱団」「留学」「英語」「お金」「プログラミング」「研究」

について書きたいと思います。

「全然絞れてないじゃん」と思ったそこのあなた!素晴らしいツッコミです。

深夜テンションで書いてるのでもうちょっと付き合ってください笑


まず、サークルでは九大混声合唱団という合唱団に入りました。この合唱団めちゃくちゃ人数が多いんです。僕が入団する前の2、3年生しかいない状態で100名ほど団員がいました。なぜここに入団することにしたかというと、新入生歓迎で演奏してくれた演奏に胸を打たれたからです。

皆さんは100人の合唱って聞いたことがあるでしょうか?僕はその時初めて生で大人数の合唱を聞いたんですけど、すごいんですよ。エネルギーが。声が面になって津波のように押し寄せてくるんですよね。かと思えば繊細なところでは大人数を感じさせない優しさがあったり。

全く音楽には疎くて、たまにカラオケには行くくらいしか音楽と関わりがなかった僕でしたけど、柄にもなくこの合唱団の演奏に感動して、ここに入ることを決めました。

最終的にはこのサークルの代表になって、100人以上の団員を引き連れて全国大会まで出場しましたし、自分たちが主宰した演奏会では1200人以上のお客さんを楽しませることができました。団員も素晴らしい人たちに恵まれて、主に活動していた3年間は本当に楽しい日々でした。

僕の大学生活での一番の思い出なので、喋りたいエピソードとかそこから学んだこととかめちゃくちゃありますけど、流石に長くなるので割愛します。是非本人の口から聞いてやってください。

九混

祝賀会に呼ばれて演奏を披露した時の写真


次の挑戦は留学でした。高校生まで海外にはあまり興味がなかったのですが、大学生になって自分の世界が少しずつ広がって行くたびに、「もっともっと多くのことを知りたい」と思うようになりました。その好奇心を満たす一つの手段が留学でした。

最初の留学は1年生の3月で、5週間米国カリフォルニア州サンノゼで英語とアントレプレナーシップ(起業家精神)研修を受ける、という大学のプログラムに応募して初めて日本を飛び出しました。結果的にこの留学は、のちの僕の人生の方向を大きく左右します。

研修ではサンノゼ州立大学というところで英語の授業を受け、週末にはシリコンバレーのベンチャー企業を回って起業家の方々にお話を伺いました。

2017年3月当時、日本では今ほどベンチャーイケイケの風潮はなかったので、シリコンバレーに優秀な人材が集結して新しい技術を毎日のように開発している姿は僕にとってとても刺激的でした。

また、ここで出会った日本人起業家の方から伺った「英語とお金とプログラミングの知識だけは大学生のうちに身につけておいた方がいい」という話に大いに納得し、帰国後はこの「英語」「お金」「プログラミング」について学んでいくことになります。

ちなみに、研修中はホームステイで現地の方のお家にお邪魔していたんですが、僕のホームステイ先はなんとゲイカップルの家庭でした笑 最初はもちろん戸惑いましたけど、話してみるとめちゃくちゃいい人たちで、向こうも元々日本の文化などが大好きだったらしく、すぐに仲良くなりました。4年以上経った今でも友達です。

日本の庭

ゲイカップルから「日本風の庭を作って欲しい」って言われて半日かけて作った庭 我ながら頑張った


2回目の留学は3年生の3月で、工学部での成績が良かったことが幸いして米国イリノイ州のイリノイ州立大学というところで約5週間の研究室インターンシップをさせてもらいました(交通費・宿泊費全てタダ!ありがとう九大!)

研究内容は半導体の新材料として期待される黒リンの研究で、他の物質を付加(ドープ)したときにどんな挙動を示すのかをシミュレーションするという内容でした(これは僕の専攻とは全く外れた内容笑)

この頃には英語がある程度聴けるようになっている自信があったんですが、なにぶん研究となると専門用語のオンパレードなので、先輩研究者とディスカッションするのにも最初のうちはかなり苦労しました。

わからない単語が出てくるたびに「ちょっと待って!」「ごめん、何それ」って質問したり、Googleで調べたりしてました。

先輩研究者がこれまためちゃくちゃいい人で、たびたび説明を止める僕に対しても根気強く説明してくれたことには心から感謝してます。おかげでなんとか結果を出すことができて、多少の貢献はできたかなと思います。

物怖じせず質問できる性格で本当によかったと思いました。

1回目の留学では世界の大きさと自分の小ささを知って終始圧倒されていましたが、2回目の留学ではたとえ自分の得意分野でなくても頑張ればなんとかなることを身をもって経験しました。

「自分は小さい。世界は大きい。でも自分にもできることはある。」

そう思うともうちょっといろいろ頑張ってみてもいいなと思えます。

最終発表

一応研究の最終発表の様子 何も見えんけど


さて1回目の留学から帰ってきてから、専攻である機械工学の勉強に加えて、シリコンバレーの日本人起業家の方から勧められた「英語」と「お金」と「プログラミング」を自分で勉強するようになりました。

まず英語について。

元々英語に対して苦手意識はそこまでありませんでしたが、1回目の留学で生の英語のスピードに圧倒されて全くついていけなかったことがショックで仕方ありませんでした。

そこで、とりあえずひたすらリスニングを繰り返して英語のリズムと発音に慣れようと考え、iPhoneに純正で入っていたPodcastで暇なときに英語を四六時中聴いていました。

最初は英会話レッスンみたいなやつを聴いていましたが、あまり面白くなってきてからはネイティブがフランクに会話しているラジオみたいなやつに切り替えました。

これが普通に面白くて四六時中聴いてても全然苦にはならなかったです。

不思議なことにリスニングができるようになってくるとスピーキングやリーディングの力もついていきました。考えてみたら新生児が言語を覚える順番もリスニングからですしね。

一応どのくらいできるようになったか測るために、TOEICを大学卒業までに3回受けて、1回目にお試しで受けたときにはあまりの問題数の多さに撃沈しましたけど、3回目には900点を超えました。

英語がある程度できるようになったことで、触れられる情報量が格段に増えましたし、何より海外のYouTubeの動画まで手を伸ばせるようになったことはすごく嬉しかったです笑

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リスニングが満点だったのは嬉しい


2つ目に勉強したのが「お金」のことです。

そもそもお金とは何で、どこから生まれて、どう自分の人生を豊かにしてくれるのかについて考えたことはあるでしょうか?

ありがたいことに、このときまであまりお金に困ることなく大学生になっていたので、この辺の話に興味を持つこと自体ありませんでした。

しかし、考え直してみると日本という資本主義社会で生きていくのに、その最大のルールとも言える「お金」のことを知らずに大人になるのはかなり危険なことかもしれません。

それに副作用的ではありますけど、「お金」のことを知ろうと思ったらそれ以外の前提となる教養がないと理解ができません。

「お金」の動きをマクロに捉え直すと「経済」がありますし、

「経済」は自分(自国)だけでなく他者(他国)とともに循環させていくものなので、各自(各国)の「関係性」を理解せねばなりません。

「関係性」は一朝一夕で作り上げられるものではなく、各自(各国)のそれまでの「歴史」が深く関わってきていて、

「歴史」はその当時の人々の想いや考え方が重なって作り上げられたものなので、人々の考え方の根底にある「宗教」への理解も欠かせません。

こんなふうに、ざっと考えただけでも「お金」の周辺には必要な教養が無限にあります。なので、「お金」の勉強をしていくうちに大人になる準備もできるのではと考えました。

実際にいろんな本を読んだり動画を見たりしながらのんびり勉強してみると、意外と相性が良かったみたいで時間が溶けていきました。

なにぶん勉強することは膨大にあるし、この辺の話は日々更新されていくものなので、数年かけてその数%も理解はできていないと思いますが、それでも学ぶ前に比べ世界はだいぶクリアになったし、世の中に蔓延るフェイクの数々に心を乱されることは少なくなりました。

ここで得た知識はきっと僕の人生を豊かにしてくれる...はず笑

またこういった勉強をしているうちに「学ぶって楽しい」と心から思えるようになりました。人生を長い目で見た時に、ここで非常に重要な考え方を手に入れられたことはとても良かったと思っています。

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よく使ってたNewspicks 多分pickした記事は1000は超えてる


3つ目に力を入れたのが「プログラミング」です。

大学1年生の授業で初めてプログラミング言語(C言語)に触れて機械のあまりの融通の効かなさに絶望し、しばらくプログラミングとは遠ざかっていましたが、所属合唱団のHPが古くなっていてどうしても作り直したかったので、仕方なく大学2年生の時にHTMLとCSSをゼロから勉強することにしました。

いざやってみると、自分が書いたコードがすぐにパソコンに反映されることが嬉しくってすぐにハマってしまい、本を一冊読みこんで基礎を覚え、あとはやりながらどんどん知識を身につけていきました。(その時作ったHPは今も使われてますが、流石に見るも無残なコードなので後々作り直そうと思います、、)

しかしそのころは将来Web系に就職することなども考えていなかったので、HPを作り終わった段階で他のことに興味が移り、再度プログラミングからは離れました。紆余曲折が長いですね笑

転機になったのは上述のお金の勉強をしていく中で、「自分は将来どんな人間になりたいんだろう」とちょっと真面目に考え始めたことです。

元々モノづくりが好きだったことから工学部に入って機械系の勉強をしていて、勉強している内容は確かに面白かったですが、将来機械系の研究者になりたいか、企業で機械を設計する人になりたいかと言われると、そこまでの熱はありませんでした。

(ちなみに高校の頃はパイロットになりたかったんですが、シアトルのボーイング本社に見学に行った時に工場長みたいな人から「これからパイロットは間違いなくいらないよね!機械より人間が操縦桿を握る方が危ないよ!hahaha」って言われたことがショックで選択肢からいつの間にかなくなっていました笑)

それよりももっと社会と積極的に関わっていきたい、社会に対して直接的に自分の価値を届けられる仕事がしたいと考えていました。

加えて、お金の勉強をしているうちに自分がいかに恵まれた環境で育ってきたのかを実感しました。

多くの先人の努力があって自分が今この時代に平和に暮らすことができていて、多くの周囲の人達の協力があって今自分は好きなことを勉強できています。

そのことに深く感謝をしたいし、この恩は社会に返していきたい。

自分が今まで受けた恩に、自分が勉強してきたことを掛け合わせてさらに大きなものにして、誰かにそのバトンを渡したい。

そんなことをふんわり考えました。

そして「自分が作ったもので誰かの幸せをつくる」ためにはどうしたらいいかを考えたときに、ソフトウェアを作れるスキルがあればハードウェアよりレバレッジが効くし、可能性は無限大に広がるなーと思い、プログラミングと改めて向き合うようになりました。

今は簡単なWebアプリを作るくらいしかできませんが、早くアイデアを形にできるような人間になりたいと思います。

ポートフォリオサイト

お試しでポートフォリオサイトも作りました 暇なときにでもリンク飛んでみてください


さて、大学期最後の内容は「研究」です。

うちの学科では学部3年生まで基本的にずっと座学、4年生になって初めて研究室に配属されて研究活動が始まります。

研究室は「機械振動学研究室」を選びました。その名の通り振動系の研究をしている研究室です。

この研究室を選んだポイントは「研究でプログラム(コード)を書けること」と「先輩と先生が優秀そうだったこと」です笑

研究室選びの時点でやりたくない分野の研究はいくつかあったんですけど(材料系とか流体系とか)、特にやりたい研究とかはなかったんですよね。留学の時の経験からどの分野でもある程度やっていける自信はあったし、自分としてはやる内容は重要ではありませんでした。

逆に重要視したのは、まず将来のためにプログラムを少しでも書いておきたかったので、実験主体ではなくプログラムを回してシミュレーションをするタイプの研究をしていること。

そしてそれまでの自分の経験から、「優秀な人達に囲まれた環境でチャレンジャー的な立ち位置に自分がいる方が、最終的に多くのことを学べる」ということがなんとなく分かっていたので、優秀な人達が多く揃っている研究室を選びました。

今考えても、高尚な目標があるわけでもない薄っぺらい考え方ですけど、意外とこの選択は間違ってなかったと思います。

うちの研究室では、振動学の分野で日本有数の権威である教授と、論理的で非常に頭の回転が速い准教授に対して、毎週毎週研究の進捗をプレゼンする機会があるのですが、この人たちを納得させる説明をするのはかなり大変です笑 ちゃんと論理を組み立てて、しっかりとした仮説と検証を毎回行う必要があります。

決して楽な活動ではありませんが、その分非常に学ぶところも多いです。将来確実に自分のためになるとも思います。

例えば、研究をしていてある事象が現れた時に、それに対してどんな解釈(意味づけ)をしてどのように対処するのが適切なのかをいつも考えさせられますが、それこそが時代を生き抜く「考える力」なのかもしれません。

おそらく研究内容自体は自分の将来に関係ありませんが(コネクティングドットがあればいいね!笑)、これからの60年くらいは多くのことを考え、自分なりの理論を立てて正解のない答えに挑んでいく時間が続くわけですから、今こうやって「考える力」を鍛えていることはきっと無駄ではないはず。

そんなことを考えながら、今日もプログラムを書き、教授達を唸らせる内容について考えを巡らせています笑

(研究室の写真は特になかった笑)


VCインターン期

さて、大学期に自分の人生の目標として「自分が作ったもので誰かの幸せをつくる」ということが定まったわけですが、ちょっと違った視点に立ってみると、物は作るだけでは人を幸せにすることはできません。適切な人に適切なものが届くことで初めて価値が生まれるわけです。

そう考えた時に、物を作る人ももちろん大切なんですけど、その作られたものを適切に評価して市場に流通させる人の役割もすごく大きいなと考えていました。

そんな大学4年生の中盤、一度目の留学の時にアテンドをしてくださった方の紹介で、米国シリコンバレーのベンチャーキャピタルで1年間インターンをしないかというお誘いがありました。(あえて社名は伏せますが気になる方はポートフォリオサイトで確認してください)

シリコンバレーは言わずもがな世界中のテクノロジーが集まるメッカですし、そこのベンチャーキャピタルといえばシリコンバレーの最先端テクノロジーを世界中に広めるための中心的な存在です。

また、その会社はCVC(コーポレートベンチャーキャピタル)の運用を世界最大規模で行っている会社であり、毎年運用額を増やしている成長真っ只中の会社でした。

もうそこには行く理由しかありませんでした。笑

その時には大学院に合格していましたが、大学を卒業して大学院に入学するタイミングで休学して、1年間米国でインターンをすることにしました。

実際に渡米して働いてみると、めちゃくちゃにエキサイティングな環境でした。

僕は社長直下の営業部隊に配属され、日本の大手企業とCVCを締結するために、提案企業に合ったベンチャー企業の発掘から資料の作成、プレゼンテーション、契約の締結まで基本的に営業の全工程に携わりました。

全ての決定権を持っている社長直下のポジションだったためスピード感が尋常じゃなく、分単位のスケジュールで会社の方針が決まり、何千万〜何億円のお金が動く様に追いつくことだけでも必死でした。

また、それだけのお金を取ってこれるかどうかは営業部隊にかかっているので、資料の作成一つとっても、この資料を見た時に本当にお客様が自分たちを信用してくださるか、お金を出したくなるかを考え抜いて作る必要がありました。

一瞬一瞬が勝負で片時も気が抜けない日々が続き、この頃は1日14時間以上は普通に働いていました。(これが社名を言えない理由でもある笑)

身体的には辛かったですが、自分が成長できている実感は確実にあったので逃げ出さずに食らいつくことができました。その甲斐あってか初出社から1ヶ月が経つ頃にはできることも増え、営業活動にも自信を持って参加できるようになっていました。

社長もその姿を見てくれていたようで、10億円規模の投資案件の担当を僕に回してくださり、紆余曲折ありましたがなんとかその案件を契約の締結まで完遂することができました。

そんな矢先、コロナの影響によりカリフォルニア州がロックダウンしました。程なく日本でも緊急事態宣言が発令され、日本に帰国する時には2週間の隔離が必要であるという通達がなされました。

ロックダウンがあっても在宅で仕事はできるので仕事の面での影響はありませんでしたが、心配なのは日本にいる家族です。特にその当時は高齢者の異常な死亡率がニュースでも取り沙汰されており、祖父母のことがとても気がかりでした。

「もし万が一のことがあった時に、自分はアメリカから動くことができないけども、それで本当にいいのか?」と何度も自問自答し、最終的に日本に戻ることを決意しました。

結局2ヶ月弱のVCでのインターンとなりましたが、世界の最先端で勝負をすることで得た経験は何者にも変えがたいものです。日本にいた時の何倍ものスピードで時間が動いていて、動く人間の数もお金の規模も桁違いでした。

ただその中で違和感を感じることもありました。

確かにシリコンバレーでは毎日のように新しい会社が立ち上がり、VCなどを経由して世界中からお金が集まっていましたが、僕の目にはそれが少し儚くも映りました。

そこにあるのは「会社」と「お金」であり、僕が将来の目標として掲げているような「人」と「幸せ」ではありませんでした。

もちろん会社が売上をつくるということはそこに需要があるということのなので、そういった意味では誰かを幸せにしているかもしれません。また、経済を循環させて価値を広げていく人は世の中に絶対に必要で、それを生業にしている人には変わらず最大限のリスペクトをしています。

ただ、自分が本当にやりたいことを考えた時に、やはり僕は自分がやったことの先に誰かの幸せがあることに生涯をかけて取り組みたいという気持ちが強かった。

僕は改めて、実際に手を動かして価値を生み出していく側の人間になりたいと思いました。

インターン

VCインターンで使用したノート 2ヶ月弱で4冊も使うことになるとは


現在

米国から帰国をしたのが4月の中旬で、コロナの影響で始業が遅くなっていた事が功名し、ぎりぎり大学院の休学を取り消すことができたので、現在は九大の大学院で大学と同じく振動系の研究に励んでます。

また福岡のシステム開発の会社でインターンもしていて、CakePHPやAWSらへんと日々格闘中です。


最後に

2000文字くらいで終わらせるつもりだったんが、だいぶ長くなりました笑

僕っていう人間はこんな人間です。

すごいことを成し遂げているわけでもないし、すごいスキルを持っているわけでもありません。

でも、多くの人の協力があって今の自分があることを知っています。

そのことに感謝をしながら、今日も多くのことを学び、考えながら生きています。

自分が受けてきた恩に、自分が勉強してきたことを掛け合わせて

「自分が作ったもので誰かの幸せをつくる」

ことを目標に、これからも頑張っていきたいと思います。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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