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過去の自分

過去の自分

麻帆さんとお別れ?した後の自分は荒んでいました。

いわゆる不良と言われる類の人間でした。

まともに学校も行かずさぼりの状態、喫茶店に入り浸っていました。

麻帆さんの嫌いなタバコをやめず、酒たばこの毎日でした。

その時知り合った喫茶店の店員と付き合い始めました。

麻帆さんとお別れした後の私は全てが投げやりでした。

何とか留年せずに卒業できたのは、少しだけ残っていたプライドでした。

中学生の頃は勉学に励み、部活も頑張り(バスケ部でした)、生徒会にも参加し、

いわゆるいい子ちゃんでした。

その頃は成績も良く、高校の越境入試でも何も問題はありませんでした。

それだけプライドを持っていました。

だから、留年だけは自分を許せなかった。

やっとの思いで卒業した私は、即家を出ました。

卒業後の進路は何も決まっていませんでした。

責められるでもなかったのですが、家族と一緒にいるのが苦痛でした。

喫茶店で知り合った女性と同棲しました。

定職にもつかず、お互いのバイト代だけで暮らしていました。

バイトも転々とし、将来についてまともな考えも持っていなかった。

そんな生活を2年続けていました。

時折麻帆さんの写真を見ながら・・・。

見る度に、合わせる顔が無いと落ち込んでいました。

そんな生活をつづけながら就職のチャンスが巡ってきました。

父の勤め先に空きが有り、勤めないかと誘われました。

職に困っていた私は直ぐに飛びつきました。2年ほど営業職でお世話になりました。

そんな頃、全てを諦め流れに身を任せていた私は同棲中の相手と結婚することになりました。

もう過去とは決別しようと考え始めたからです。

結婚式は寂しいもので、参列者は無く、二人だけで式を挙げました。

友人ですら縁を切ろうとしていました。

全くのゼロからの人生やり直しを覚悟した瞬間でした。後悔はしていません。

結婚してからは、迷いは日に日に薄まり、新しい人生を楽しんでいたと記憶しています。

しかし、営業職が私には合わず、体を壊してしまい入院。

それを機に転職、今の勤め先の日本医科大学と出会い再就職する事となりました。

丁度その時に息子が生まれました。

バブルも弾け、景気が悪くなってきた時だったので、渡りに船でした。

しかし、順風満帆とは行かず、私26歳(息子3歳)の時に妻の都合で離婚し、そこから3年息子と私だけで(実家の世話にはなりましたが・・・。)生きてゆくことになりました。

妻とはそれ以来会っていません。いまどこで何をしているのかさえ知りません。

本当のお別れになりました。

父子家庭となり、実家の世話になり、やっとの思いで仕事を続け、今に至ります。

私生活では、離婚後に私に子供が居る事を承知で、それでも構わないと言う女性が現れお付き合いを始めました。

実は離婚後に船橋へ行き、麻帆さんに逢いたいと思い、建物の前まで行きました。

しかし、こんな状態(バツイチ子持ち)の自分に自信が無く、公園で暫く気持ちを落ち着かせてから家路につきました。

絶対に受け入れてもらえないと分っていたからです。

こんな恥ずかしい人生を歩んできた自分を見せる勇気が無かった・・・。



お付き合いした女性とは3年ほど遠距離恋愛をしていました。半年に1度ぐらいしか逢うことは出来なかったのですが、私が30歳の時に再婚する事となりました。現在の妻です。

この頃には麻帆さんの写真は私のお守りとなり、時折アルバムを開いては気持ちをおちつかせていました。

毎回、どんな生活を送っているのだろう、幸せでいるだろうか・・・。と思いながら眺めていました。

もう逢うことは出来ないだろう、お互いに幸せに生きていれば、それが一番の幸せだろうと思いながら・・・。

人生内が起こるかわかりませんね、これだけ長い間私の心に住まわれていた麻帆さんを更に意識させることが起こるなんて・・・。

それは私の母が癌になった事に始まります。

分った時には時すでに遅く、リンパ節への転移が複数、手術でも取り切れない状態でした。

一時は私の勤める病院に入院させたこともあります。

検査の結果は父ではなく、私が呼ばれました。

転移を止める方法は無い、抗がん剤で延命するが長くは無い。との診断でした。

脳への転移も有り、日に日に色んな事を忘れていくようになりました。

麻帆さんの御実家の電話番号もこの時にはもうわからなくなってしまいました。

聞いても何のことか通じなくなってしまったのです。

そんな母も闘病の末亡くなり、船橋へ埋葬することになりました。

元御実家近くの市営馬込霊園です。車で5分ぐらいです。

納骨日、待ち合わせの時間より早く家を出て、元御実家へ行きました。

1号棟から4号棟まで、表札を探しましたが、お名前は有りませんでした。

気持ちを公園で落ち着かせ、気を持ち直して霊園へ向かいました。

母の納骨なのに心は別のどこかに置いてきてしまったようです。

それ以来、麻帆さんがまた私の心に住み始めました・・・。

今更何をどうにかするなんて考えていません。一度お顔を拝見して、私の心に住まわれている麻帆さんと一致させたいだけなのです。

しかし、運命とは厳しい、人生は苦しいものですね、ことごとくチャンスを逃してしまっていました。

今回麻帆さんを探す行動を始めたのは、私自身の病気が判明したからです。

母の事も有り、自分が誰かさえ分からなくなる前に、運命・人生に抗っていこうと決めました。

幸い、私の病気は摘出手術により癌ではない事が分り時間に余裕は出来ましたが、 

癌家系であることは否めないので、大丈夫な内に貴女を見つけ出したいと考えるようになりました。

そして今現在・・・。

調べ忘れていた5号棟の表札を先日見に行きました。

既に転居されていました、手詰まりになりましたが、ここでこうして書き続けます。

いつか貴女に届くまで・・・。

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