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「あはれのありか」(菊池洋勝句集『聖樹』を読む)

呼吸器と同じコンセントに聖樹 菊池洋勝

作者の生命線である医療機器の電源を分けるクリスマスツリー。赤や青をした安物の電飾は規則的な呼吸音と時たま同調しながら瞬いている。たった一つのコンセントが生殺与奪の権を持つという生活はどれ程辛いものであろう。寂寥、焦燥、諦観、不撓。掲句には病床を定めとされた一人の男の万感が込められた作者畢生の名句だ。口誦性に富み、ウエットに傾かず乾いた美しさのある掲句は菊池が俳句というフォーマットを上手く乗りこなしている事の証だ。ぼくは初見で衝撃を受けた事を今でも覚えている。

菊池洋勝。北大路翼を家元とする歌舞伎町俳句一家屍派の雄。菊池は難病「先天性筋ジストロフィー」という宿痾を持つ俳人だ。彼は介助が無ければ生活が出来ない。それはまさに若くして脊椎カリエスを患い寝たきりとなった正岡子規の後半生に重なる。おそらく菊池自身も子規に自らを重ねているのか病床で句を詠みかつ絵を描くが、その画風は子規のどこか飄々とした筆と異なり、まるで地下深くに滾るマグマが湧出し固まったような赤黒い塊を彷彿とさせ、菊池の深いところに持ち続ける鬱積そのものに見えてくるのだ。そんな菊池が第一句集を刊行したと言う。おお!と声を上げ、さっそく注文したのは言うまでもない。句集になる事で句は雫から川に、そして大河ともなりうるのだ。名句聖樹を詠んだ俳人はこの句集にどんな顔を見せるのだろう。

蛤の口ほど開かぬ顎の骨
俳人は冷静でなければならない。激情に流されては俳句にならない。菊池は句の上でまったき冷静だ。自虐が続けば読者は目を逸らすものだが、不如意な身体を観察する冷静な目は読む者の目を釘付けにする。菊池は開く事を拒む蛤の頑強な貝柱にいっそシンパシーを覚えている様にも感じてならない。

看護婦の透ける下着も春めける
延命治療が優先される医療の現場に遊びの余地はない。清潔感のある白や柔らかなパステルカラー、医療機器の無機質が支配する病室は次第自らの輪郭があやふやになってくる。それを止めるのは身の奥にほむら立つ「欲」の感触なのではないか。よく見て欲しい。こんな淡く美しい季節感の表し方があるだろうか。

余命半年の変態髪洗ふ
「余命半年の変態」。もうぼくは掲句にやられてしまった。深刻な「余命半年」に対しなんという大胆かつド直球な諧謔だろう。まさに俳句。聖樹にならびこの句こそ後に残る一句たる口誦性とおかしみがあるではないか。

グラビアの乳に挟まれ逝く蚊かな
良句の並ぶこの句集の中の白眉。
菊池はグラビアを凝視しているようで実はそこに潰れてしまった蚊を熱心に眺めている。モデルの色白で豊かな乳房にピンナップされている蚊だったもの。四肢の一本いっぽんが妙にリアルで、ここに潰れた過程を想像したり視線を乳房と蚊へ交互に投げながらふと自らと蚊との差が然程無い事に気づくのだ。ここに磔となったものはまさしく自分なのでは無いか。病室という人工的な世界に外界から現れた「もの」としての蚊の死骸。それを見つめる自らを客観視した「あはれ」が見事に一致し、江戸期本居宣長が源氏物語に見、そして提唱した「もののあはれ」がここに顕現する。菊池の句は境涯俳句の枠を越え、古来日本人が営々と育ててきた美学に触れているではないか。以下を見よ。下品で、みっともなくて、かっこわるい句ばかりだ。しかしどこか純粋で、見ている内にソワソワとしてくるのは菊池という本体の中にある、日々死に面している者のみが獲得した「美」にぼくらが共振しているからなのではないだろうか。

立ちバックする足がある春の夢
春爛漫ナースに糞を褒めらるる
秋簾尿瓶を洗ふ人を呼ぶ
仮装する必要のない体かな
内視鏡届かぬ先の痒みかな
大寒や釣銭口を探る父

菊池は十七音という壺中にまったき自由だ。強く、乾き、豊かな翼を思わせる言葉に驚き、軽い嫉妬を覚えた事を告白する。良い句集だ。難病を抱えているという思い込みをせず是非手に取ってみてほしい一冊であった。

里俳句会・塵風・屍派 叶裕

聖樹(菊池洋勝句集) https://www.amazon.co.jp/dp/4910179100/ref=cm_sw_r_cp_api_i_RTB594KGETHHFCQBG7EK


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