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「what's going on」(『What's』創刊にあたって) 叶裕

前から思っていた
何となく感じてた
柳人は素数なんだ
割り切れなくって
やわらかくも見え
実は角張っていて
簡単にほどけない
曲者のような存在
俳句を作る僕から
一番遠い存在だと
思っていたけれど
案外ちかくにいて
にこにこしながら
グサリと刺される
そんな存在なんだ
マーヴィンゲイの
名曲の一部を貰う
句誌の名を僕らは
きっとはぐくもう
柳人と俳人の界は
このWhat'sという
新天地においては
あいまいにしよう
彼らから何を得て
何をもたらせるか
たのしみにしよう
たのしみに待とう
今や素数が面白い!


◯「どきっとする」樋口由紀子
われわれは絆創膏がよく似合う
三分の一のところでどきっとする
記憶なら西南西に向かいます

コロナ禍を過ごしても相変わらずの健吟に驚くやら安堵するやら。川柳界いや、いまや文芸界の太陽樋口由紀子は健在であった。「絆創膏が似合うわれわれ」とは柳人であり川柳界を指すものか。もっと俯瞰すればコロナに閉塞する社会に対する叱咤にも読める。少しくらいの瑕疵がどうした。われわれは元々絆創膏だらけで野山を駆け回っていたじゃないか。変に過保護で神経質に病むこの国にバシッと突きつけた一句が心地良い。


◯「寸止めの」水本石華
たましいのつまみどころを忘れた日
湯どうふが武者震いして踊ってる
影長く引いて職質続いてる

職質をされたことがあるだろうか?生まれつき剣呑な顔をしたぼくは枚挙にいとまが無いほど職質をされてきた。腹の虫の居所にもよるが拗れると長くなるのは必至である。掲句、大西日に影絵のようになるふたりを作者は漂流者の目線で眺めている。

特記すべきは「川柳の沃野」と銘じられ添付された論文だ。「川柳の定義より川柳の事実の方に気持ちを開いていたい」という独白は総ての文芸人に刮目して読んで欲しい一文であった。「歌仙三十六句中三十二句を占める平句の質量を担う川柳」と言う記述に川柳の大きな可能性を感じさせてくれたのである。


◯「すう、はあ。」竹井紫乙
息吐けばスワトウレースの漁網
ゼリーで固める影の薄い子供
箱だったことを忘れている仔猫

ふと「影の薄い子供」とは作者自身の姿なのかな?と思う。存在感の薄い子の、ふとこの世から飛び立ってしまうような危うさを綺麗で澄んだゼリーで固定してやりたい、もしそうだったら過去の自分はどれだけ救われたろう。過去の自分に対するエレジーはあくまで澄んで美しく輝いている。


◯「Odyshape」月波与生
積読にヒースクリフが二人いる
いいかっこしいです鮫の大腿部
出産の痛みで首のない土偶

ああ柳人の句だな、と思う。
言葉の衝突、時として脱臼も辞さぬ川柳の膂力が作者にはある。土偶に顕著な首の表現が無いのは製作上での必然ではなく、産む苦しみによってというのには驚いた。掲句の結びへと向かうリズムは口にしても心地よい勢いがあり、かろがろと川柳の良さを作品にできる力を感じさせる。


◯「会いましょう」佐藤みさ子
ミンミンとジージージーにある小道
サル目ヒト科マスク属
借りものの身体かゆくてはがゆくて

この国のコロナ禍は小康を漸く保っているが、ほとんどの人間はそれがかりそめであることをしっている。あれほど焦がれた自由を曲がりなりにも満喫できるようになっても日本人がマスクを外さないのはよく言われるような「同調圧力」のせいばかりでは無く、呪符のように仮面のように外圧から己を護るマスクの効果に気付いたからなのではないだろうか?サル目ヒト科マスク属ぼくらは人類史に初めて仮面を公然と着けられる時代に突入したのだ。


◯「焦螟」川村研治
草取りをせねばとおもふ原爆忌
引き潮の渚を歩く素足かな
簗に魚跳ね山国は雲の国

俳句らしい俳句。川柳に目が慣れた頃、俳句に行き合うと何か硬い物に囲まれる感覚がしてどきりとする。たぶんそれが俳句と川柳の違いなのかもしれない。「原爆忌」という季語にはいつだって抵抗があった。義父は被爆者であった。娘がぼくと結婚する時、密かに自らの放射線障害を気にしていたという。忘れてはならない。しかし掘り起こしてもならない。そんな強い言の葉。しかし掲句には生活の中にその語があった。そうか、、草取りせにゃ。その一言に救われる思いがしたのである。


◯「水色曲馬団」妹尾凛
夕方のピンボールから真っ直ぐに
口さみしくてとらんぽりんぷりん
ずっと夏だけは時間を止めていた

やわらかく跳ねるような、ゆるゆるドリフトするような、フローティングするような作風を持つ作者に「ゆるふわ」という安い言葉は似合わない。しかし夏は、夏だけは時を止めていたという。恣意的に止めていたのか、止まらされていたのか。その詠にはコロナのむごさよりどこか作者の見ている白昼夢を見せられている感が強く残るのである。


◯「揺れる」鈴木節子
理学療法士(リハビリ)の魔法に歩き出す達磨
お静かに泥水は今澄む途中
時は今天が下みなコロナかな

驚いた。この沈殿したコロナ禍を「時は今」と詠む者がいるとは。ぼくの読みちがいでなければ作者はこの疫癘の世を待ち侘びていたかのようだ。作者はある時、転んで左膝蓋骨靱帯断裂という大怪我を負い五十日間という長きに渡る入院生活を余儀なくされた。おそらくご高齢であられる作者は果たしてこの不便をかこつ生活にも句を刻みつけていた。素数。そうだ。柳人は素数なんだ。割り切れない割り切れなさを持ちながら、飄々と目を見張る柳人が頼もしく見えたのである。


◯「シェイクスピア」中内火星
よく知らない人だがまず蛸を食う
人生にぴったり合う段ボール箱
年寄を楽しむ死ぬも楽しみ

作者は俳句を書けば「下手な川柳」と呼ばれ川柳を書けば「変な俳句」と呼ばれる俳句と川柳のあわいを生きているという。そしてそれに困っていないと言い放つ。うん。よいではないか。短歌と俳句の界に立つぼくは強く首肯するのである。勝手な事を言えばぼくらは越境者なのだ。国界に立ってみる「壇」と名の付く壺中のなんと息苦しいことか。そんなもの放っておいて作者と蛸でも食いたい気分なのである。


◯「満腹」鈴木せつ子
もどらない怒鳴ってみても叫んでも
誕生日もうろうそくはいりません
きらきらと光ったほうが前ですよ

「老いること」。人が与えられた命題は若輩にとって淡い恐怖と焦燥と諦観のモヤの向こう側にある。作者は昭和、平成、令和の激動を過ごし、このモヤを歩んできたのだ。「もうろうそくはいりません」「もうろく」とも読めてしまうが、この残酷な言葉がなんとも柔らかい諧謔に包まれている。ここに柳人の手技があるのだ。この連作はぼくら若輩へのおだやかな叱咤と警告なのだ、と捉えてみる。


◯「夕空晴れて」浮 千草
ひだまりはほぼほぼたんぽぽ保育園
おびただしい数のみみずに支えられ
少しずつわたしが消えるわたしから

「ほぼほぼ」という「ほぼ」を強調する語を最近良く耳にするのはテレビで芸人が口にするからか。しかしこの語の初出は1949年の国会議事録にあるという。ずいぶん厳しいはなしではあるが掲句の「ほぼほぼ」はなんともほわんとして口にして心地よい。言葉は口にして初めて言の葉たる力を発揮する。その言葉の遣い手次第である事を掲句は物語っている。


◯「Here I am」野間幸恵
沙羅双樹たとえば風の帽子かな
海という開いたままの目蓋かな
濁点を使いきれない神戸にて

作者は子供の頃から変わった形の石や端切れ集めが好きだったという。それは大人となって俳句という形で昇華した。作者の審美眼に合う単語はたとえば綺麗な石ころであり、時に外国の切手なのだ。それを日がなサイコーの組み合わせにする。ぼくはそのサイコーの御相伴にあずかった。ここに「論」より優先される美がある。作者を「俳人」と呼ぶ事は本意ではないだろう。うやうやと「表現者」と呼ぶべきである。


◯「ムサシ」鈴木逸志
ムーちゃんのお目目に映る青い空
指切りの指が真っ赤に腫れたまま
悠々と枯葉が進む水鏡

「ムーちゃん」こと「ムサシ」とはこの春から作者が飼い始めたトイプードルだ。人間で言えば五十六歳。十数本の虫歯、結膜炎やオムツなど、それなりに草臥れて来ている。奇しくもこれを書いているぼくが五十六歳。なんともムーちゃんに肩入れしてしまいたくなるのである。掲句、それなりに世話が大変であっても苦にならぬ作者の喜びがたしかにある。ムーちゃんとの時間はたとえコロナ禍や日本中を騒がせたオリンピックなどの大規模イベントと隔絶された穏やかな時間なのだ。


◯「雪の日の」加藤久子
空に穴現場からは以上です
月光がときどき触る壺の耳
夕焼けがにおう私の番ですか

「現場からは以上です」このフレーズはいつか使いたかったのである。それも「空に穴」である。あっ、やられた!と思わず口にでた。それも作者は八十二歳であられるという。なんという健吟。なんという柔軟性。一言「参りました」と言わざるを得ない。今後更なるご健勝、ご健吟を祈ってやまぬ。


◯「どうも」兵頭全部
五か国語チュールの封を切る仕事
熟れすぎたバナナにあとで聞いておく
動く点Pの軌跡に殴られ屋

絶大なる人気を誇る猫のおやつ「チュール」は飽きやすい猫のために全部で95種類のフレーバーを用意しているという。まるで麻薬もかくやとばかりにチュールに夢中となる猫を見ていて不安になる方もおられるかもしれぬが、なんとナチュラルな原材料で出来ているのだという。一度覚えてしまえば猫にとって人間などチュールを運ぶメッセンジャーにすぎないのだ。愛猫と作者の関係の機微がよく現れている掲句である。


◯「なに色」高橋かづき
裏表紙まっ白おしまいの「杜人」
西瓜食べる子 肘まで滴したたらせ
次の日はカレーうどんとなるカレー

縁があって「杜Ⅱ 杜人同人合同句集」について評を書かせていただいた。創刊73年にもなる柳誌に幕を下ろすという決断。掲句の「まっ白おしまいの」という措辞に一種さばさばとした杜人達の性向を見てとり、少しホッとした事を告白する。当該記事に書いた「野に放たれた曲者達」は『What's』という新しい砦を見つけたのかもしれない。


◯「記のとおり」広瀬ちえみ
近況を沼の底から報告す
記のとおり武器はひとりにひとつです
すごいなあとあっちの崖を見ておりぬ

「崖」。まるで柳人が強い切れ字に隔絶された俳句の厳しさに目を丸くしているような掲句。反面、俳人から見ればどこまでも柔軟な合気道の達人を相手にかすりもしない川柳の融通無碍な世界が崖のように見えなくもないのである。『What's』に集う者たちは積年の距離をどう縮めることができるだろう?その期待が掲句にはあるのである。追記としてあっ!「沼のちえみ」が帰ってきた!と東京の北千住駅で声に出してしまったぼくなのである。今後さらに力の抜けた作者の殺気を期待する次第である。


◯すこし遅くなりましたが『What's』創刊おめでとうございます!川柳とは縁の遠かったぼくがいつの間にか川柳句評を書いているのはひとえに広瀬さんのおかげであり、樋口由紀子さんのおかげです。季語だ、切れ字だと日々苦闘しているぼくにとって川柳の世界は困惑するくらい自由で、柔らかい空気をまとっていました。巻末で『What's』を「ミステリートレイン」と称した広瀬さんの姿勢に賛同致します。今後ともよろしくお願いします。ありがとうございました!

里俳句会・塵風・屍派 叶裕

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