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審美のありか (「5・7・5作品集 Picnic No.4」を読む) 叶裕



「ああ、もう4冊目か。早いな。」思わず口にしてしまう。コロナ禍に途方に暮れていても巡り来る季のように彼らは新たな作品を形にしてぼくらに問うて来たのだ。「5・7・5作品集 Picnic No.4」。リング製版されたスクエアな判型はセンスの良い文房具を思わせ、どこにでも持ち歩いてどのページでも留まりやすく肩肘張らぬ優れた作りとなっている事にまず好感する。「それぞれが持っているちょっとしたものを持ち寄る」という意味の仏語「pique-nique」を語源とする「Picnic」というタイトルはよくぞこの作品集に付けたものだと感心する。ハイキング(hiking)だと目的が強く出過ぎていて、いま流行りのキャンプだと明らかに目的が違う。高いレベルの作者が集いリーダーシップが前面に出ていないゆるやかな繋がり。これこそ文芸作品集のひとつのあるべき姿なのではないだろうか。それだけに序文の「作品を気楽に発表する場」「句集を出すと言う事の晴れがましさ、厳しさを大切に、出来る限りお洒落で安価なものを年3回発行する」という氏の意志に尊さを覚えるのである。
「句集を出す事は後にその句集の世界観から離脱、卒業し発表と同時に破棄してリセットするのだ」という野間氏の美学は文芸家というより職業デザイナーや建築家のそれに近く、優れた装幀と合わせて強い共感を覚えてならない。

◯「ポッキーを」榊 陽子
吃音のやさしき紙の上を漕ぐ
翡翠豆白いまつ毛が光るんよ
海図開き小さい夜のはだか
患部なんプラスチックのおかずなん

ぼくは江戸ッ子のくせに空っ風のように乾いてやたら性急な江戸言葉より上方のやわらかな表現が好きだ。(テメェは粗い言葉遣いの癖にね。)日本語の持つまろやかな素材感ある表現は上方言葉には敵わないと思う。そんな言葉の遣い手の作者。まったくチカラが抜けていて、横にいて「うんうん。」と頷きたくなる、そんな作風にぼくはいつも少しだけ救われている事を作者は知るまい。海図句のともし火のような「はだか」は輪郭もあやふやで、しかし許容しきれるほどの温もりにふと手で包み込みたくなるような質感を持っている。


◯「みずみずしく」岡村知昭
夏雲や猫背みずみずしく来たる
腫れながら体育館を探しけり
発熱の警官ふたり秋深し
午後からは雄の金木犀を抜く

どこかブラザーフッド的な匂いのする連作は質感を伴いながら読者の中に生き生きと少年達の姿を呼び起こす。しかし警官句でその表情は一変しホモソーシャルの一線を越え、セクシュアルな世界へぼくらを一歩踏み込ませる。この危うい関係の舞台に季語は豊かな色彩を与えてくれている事を見逃してはならない。

◯「小さな島」妹尾 凛
ほしいのはそれじゃないけど桃をむく
よくしなるダリアの夜を一列に
もうろうは昔ながらの金の空
こっそりと夜は小さな島ばかり

「もうろう」の一語に明治期の日本画で試みられた「朦朧体」を想起する。輪郭線を明確にせず、霞んだように描く手法は古くかのレオナルド・ダ・ビンチが編み出したというスフマート技法そのものである。転居移動の多かったダ・ビンチは『モナリザ』だけは手放さず、生涯かけて筆を加えスフマートの至宝『モナリザ』を完成させたと言う。ひらがなで書く「もうろう」は既にしてその輪郭があいまいとなり、横山大観の描く『東海乃曙』のように金箔の空はあやしく光りつづけている。


◯「Wartz For Sports」木村オサム
背泳ぎの手に渡されるラブレター
サーベルで蛍灯してゆく遊び
秋蝶の発つ時バーベル持ち上げる
監督のふんぞり返る前に鹿

「壮大なる無駄遣い」「コロナ禍で行う意味が有るのか」「海外に比べて日本は検査体制も感染対策も遅れている」等と散々叩かれた東京五輪の事をぼくらは早くも忘れようとしている。ネットやマスコミが伝える洪水のような情報の底流で着実に、文字通り命を賭して対策をしてくれた医療や防疫関連、政治家、官僚、五輪関係者の人々へぼくらは表立って感謝したろうか?たとえイデオロギー的に相対するものであっても感謝を忘れたら人間おしまいである。口ではなんとでも言える。批判するのも自由だ。しかし行動する者こそ尊いのだとぼくは常々子供に話している。作者の連作はそんな落ち着かない五輪をテーマにしたものだが、どこかコマーシャルフォトを想起させる作品群に作者の句に対するイメージを掴むことができる。おそらくビジュアルに関する視点を持つであろう作者の皮肉混じりのおかしみに川柳の本質が垣間見える。


◯「ゆるやかに」松井康子
八月の水の筋肉ゆるみけり
声つれて夜が出てゆくからだかな
手をしまう近江は一味唐辛子
菊人形にたまる月光捨てにいく

「夜が出てゆくからだ」のなんという措辞!「月光を捨てにゆく」のなんという抒情! そうだ、以前もそうだった。ぼくは作者の句を抄出するのに毎回どれほど苦労するのだろう。それほど作者の作品のすべては静かに、すこし湿りを帯びて輝いている。十七文字の結界に有季無季を自在にしながら決して言葉に無理強いをしない連作は卓越したセンスを窺わせる。お腹いっぱいなのに、またすぐ飢えてしまう。そんな作品であった。眼福。


◯「Scarborough Fair」月波与生
輪唱の中で欠伸をするパセリ
ピケット騒ぐ涸れた井戸から
縫い目のないシャツで地球儀を磨く
歳時記はベン図の外に出られない


映画『卒業』でサイモン&ガーファンクルの唄う「スカボロー・フェア」を知った者も多いだろう。イングランド北ヨークシャー、北海沿いの町スカーブラ(スカボロー)の市のそばに住む元恋人に伝言を頼むという歌詞に出てくる「パセリ・セージ・ローズマリー・タイム」はナーサリー・ライム(nursery rhyme)の代表詩「マザーグース」を思わせその調べとともにどこか呪文めいて聴こえてくる。歌詞という呪文は柳人を刺激してやまない。歳時記句、「ベン図」とは複数項目の集合を円を重ねて表す数学上の図である。和歌短歌、俳句に使われる歳時記を盲信することへ敢然と疑義を唱える柳人の「その外」を詠んだものを是非拝読したい。


◯「つかのまゆめみて」あみこうへい
うたまくらつくるむおんのねころびに
らっぱふくとことんのってくるむくげ
うおからとりへわたりあうゆうづきよ
ももすももぽつりぽつりとはんげんき

未完成のAIの喋る独白のような、しかしAIでは決してこの言葉を選ばないと感じる人間臭さが作者にはある。十七文字を平仮名で詠みきるという美意識はアイコニックな漢字という古臭い型から音を抽出することに成功した。不定形の音は十七文字という型の中でやわらかくしなやかにフローティングする。


◯「くるくる」大下真理子
折りたたむサーカス象の日暮まで
弄ぶだけのマッチやさくら闇
六文に一つたりない花野かな
琉球のいったいぜんたいあきあかね

「サーカス」「マッチ」「六文銭」、、ここに並ぶ言葉の古さよりその言葉の持つ力強さに困惑する。昭和生まれのぼくらはこれらの胡散臭い手触りを、臭いを、タブーを、こわさを知っている。作者もおそらくその生々しい感触をその身に刻み付けた者なのだろう。昨今襞の多い陰翳深い言葉が少なくなった。短詩型こそそれを活かすに好適な場である事を掲句は雄弁に物語るのである。


◯「誤作動」鈴木茂雄
紫陽花をはみ出してゐるアジアかな
抽斗がカンディンスキー的に夏
うかつにも秋の螢となりにけり
本箱の裏は花野に続きけり

紫陽花に毒性がある事をご存知だろうか? 牛や馬が食べて四肢硬直したり料理の飾りに紫陽花の葉を添えて出して客がぶっ倒れたりした事例があるので注意なのだ。日本原産と言う紫陽花は「みずゑ」を具現化しているやさしい和色の花だ。そんな花にも毒がありぼくら日本人の気質にどこか重なると思ってしまう。しかしそんな「気質」も若い世代には意味が無い。かれらはネットを介し軽々とボーダーを超えてゆく。偏見という色メガネを外せばほら、アジアはもっと深く大きい。


◯「猫である」中村美津江
前略は鳥よりも木のかたちして
大和なら私こわれてぽんぽんだりあ
古墳とはみどりの雨の降るところ
なかぞらや泡はもこもこ猿田彦

奈良を中心とした詠はその風土への挨拶が読み取れ、連作を読み進めるうちに作者の姿がぼんやりと浮かんでくる。「ぽんぽんだりあ」の口誦性に優れた句姿にすぐ目が行く。「こわれて」は「壊れて」なのか「乞(請)われて」なのか、その解釈はあくまで読者のメンタリティーに任されており、それによって仕掛け絵本のように意味がパタリと変わるのがとても面白い。


◯「みてあげる」広瀬ちえみ
天高くときどき留守にするこの世
またアイツ安全靴をはいてくる
ベルリンと鳴って椿の実がわれる
忙しいのでそのまま花梨で待っていて

年齢を重ねるということは少しずつ我欲が希薄になってゆくことなのかもしれない。足るを知る先にある死生観はきっと澄み切った秋空のようなものなのだろう。作者はその境地に達しているのだろうか。
作者は最近『What's』という新たな句誌を発行した。それはジャンルを問わず、十七文字というミクロコスモスでどれだけ遊べるかを問うものであった。「平成無風」という言葉が俳壇の端っこの便所の壁に殴り書きしてある。結社や同人でガチガチに縛られ三すくみのようになった「壇」を指す痛烈な自嘲であるが、もうそんな事を言っていられる場合ではない。守るものは何かを今こそ考えねば無風はいつか文芸を殺す事になるだろう。ぼくは『Picnic』や『What's』のような世界から新たな風が吹き始める事を予感してならないのである。


◯「耳石」石田展子
秋の昼乱丁のまま燃えている
神様は全裸ちいさな明朝体
洛北にあつまりやすし瓶の底
遠さとは振り返る夜の鹿の声

奥行き。作者の句にはしめやかな奥行きがある。「夜の鹿」句の青々とした闇の深さ。声も輪郭もあわあわとした鹿に神性を感じる秀句。「明朝体」句に感ずるこの国の風土に宿る神の姿のおかしみ。どの句も岩絵具を使う日本絵画のように淡く、しかし明確な美意識に基づいて描かれている事は特筆すべきである。このままずっと見ていたい。そんな句群であった。


◯「空っぽの空間」野間幸恵
終わらない鎮守の森の感嘆符
暗闇を覚えるための水着着る
杜氏たちは夜明けをつんでいくようだ
曇天を縦に結んで鞍馬寺

造り酒屋の朝は早い。古色蒼然たる酒蔵の窓から朝日が差し、もうもうたる湯気に半裸の杜氏が浮かび上がる様はターナーの絵のように神々しさすら覚え、ヨクタガリで麹をならす様はまるで神事のような浄らかな時間だ。「夜明けをつんでいく」。さてこの「つむ」にはどんな漢字が似合うだろう?「摘む」だろうか?「積む」だろうか?ぼくは古語である「集む」を充ててみたい。杜氏たちは慎重に、時に大胆に季と自然の織りなす夜明けの気を集めてゆく。それを見つめる読者は目の前に「神降し」を目撃するのだ。


野間氏は子供の頃から変わった石や端切れを集め、様々な組み合わせ、取り合せに熱中していたという。氏の審美眼はこの時養われたのだろう。この審美眼に叶った作者達がそれぞれの句心を持ち寄る『Picnic』のご相伴に預かることが出来て幸甚である。

里俳句会・塵風・屍派 叶裕




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