「神々の戯れ」(小林恭二著「俳句という遊び」を読む)

「うーん、あまり紹介したくねえなぁ、これ。」ぼくはブツブツ言いながら本を閉じた。

句会に参加しはじめて数年が経つ。
はじめて参加した句会は真夏の根岸西念寺での「東京俳's」であった。若手、ベテラン問わず錚々たる東西の俳人が集った会だが、句会前のフレンドリーな空気から一変、清記、披講、評と所々で飛ぶ叱咤にどぎまぎしてしまい、全く良い所なく終わった事を覚えている。しかし文字一つを疎かにしない姿勢こそが文化を大切にする事だとこの日ぼくは教わった。この時の俳人達との繋がりは今日にも続く大切なものとなっている。

句会。
結社で行われる大規模なものから、酒席で突発的に行われる小規模なものまで、今日も日本の何処かで行われているであろう句会はいざ参加しようとするとなかなか敷居の高いものだ。ネット句会などに参加していてもリアル句会は未経験という人も多いと思う。人づてに初めて参加しても専門用語や独自の進行に振り回され萎縮し、一句も取られずに落ち込む人も居ることと思う。しかし経験を重ねるうちに悟るのだ。句会は合否を決める試験ではない事を。句会とは言葉を使った大人の遊びなのだ。遊びは真剣にやらねば面白くないのである。未熟なぼくですらそう思うのだ、主宰クラスの俳人が集う句会とは一体どんな世界なのだろう?それを克明に記したものがこの「俳句という遊び」という名著なのである。

一九九十年四月、桃の花咲く山梨県の山あい、飯田龍太邸に三橋敏雄、安井浩司、高橋睦郎、坪内稔典、小澤實、田中裕明、岸本尚毅そして亭主飯田龍太に筆者小林恭二を合わせ計九名の錚々たる俳人が集結した。この面子で二回に渡り行われた句会の様子を克明に記したものが本書である。俳句を少しでも読んだ事のある者なら上記メンバーの名を、句を一度ならず見たことがあるだろう。俳句を書くぼくらからしたらこれはまさに神々の宴を垣間見ることの出来る絶好のチャンスだ。ここには活字でしか知らないあの俳人達のリアルがある。

作家中上健次は生前「句座は斬り合いである」と言い放った。それはまさしくこの場をよく表している言葉であろう。穏やかな語調に鋭利がきらめく。語ひとつの解釈に句はガラリと表情を変える。時に呻吟し、時に冗句を交え、拗ね、感心し、笑いながら真剣を交わす彼らはさながら剣聖達の戯れのようだ。彼らの個性ある剣風、間合いは句だけでなく句評にも存分に表れていて読んでいて飽きることがない。

なにより全体を過不足なく「読ませる」小林の筆力に舌を巻いた。小林恭二もまた東大俳句会出身の俳人である。彼は俳人の視点でこの句会の本質を噛み砕き、天界で遊ぶ神々の様子をぼくらに教示してくれた翻訳者である。
九十一年の初版から約三十年、九名の俳人達の内、飯田龍太、三橋敏雄、田中裕明の三名は残念ながら物故してしまっている。もうぼくたちは彼らの生の声を聞く事は出来ないのだ。これからどれほど優れた俳書が出ようと当時の熱気をこれほど読み易く記録した本は出ないであろう。本書は俳句を遊ぶ者にとっての頌徳碑(ロゼッタストーン)であると言って過言ではない。

ほんとは教えたくねえけど、未読の人は古本で構わないから買って今すぐ読みなさい。絶対に損はさせないからサ。

春の富士沸々と鬱麓より 飯田龍太
春日向つづきの日向老いつ行く 三橋敏雄
木蓮や銭はかならず道に落つ 安井浩司
春の夜のこんにやく薄う薄うせよ 高橋睦男
旧道が好み李の花なども  坪内稔典
種びたし桶も俵も日の中に  小澤實
雉子鳴くつめたき富士と思ふかな 岸本尚毅
桜しべ闇の龍太にあひにゆく 田中裕明

叶裕

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